ノスタルジア
斎 蓮
サイ・レン
性別 女
年齢 17
職業 ダンサー
国籍 日本
サイレンは6歳のとき、ダンスの才能を見出されてアメリカに留学した。
アメリカに住む人間はサイレンのことを、「警報器」という意味で「siren」と呼んだ。幼少期のサイレンは常に大声で独り言を口にして、気に入らないことがあれば耳をつんざくような大声で泣いた。
サイレンの母親は日本人である。
父親は分からない。
2025年、日本は戦争の末に、東側と西側に分けて他国に分割され、傀儡政権によって統治されている。
戦争のさなか、サイレンの母親は外国人兵士の暴力を受けて、サイレンを孕んだ。
サイレンの母親はそのときの記憶が朧げで、東側の男か西側の男かも分からないという。
サイレンの母親が終戦時に西側にいたので、サイレンは西側で出生した。
サイレンの母親が分割時に東側に逃げていれば、と東側の人たちは悔しがったという。
サイレンの容姿はとてもエキゾチックで、美しかった。
サイレンの容姿は世界のどの国の人が見ても、自分の国にルーツがあると思った。
サイレンの肉体は、彼女の自由自在に動いた。
ある人は彼女は鹿だろうといい、
ある人は彼女は白鳥だろうといい、
ある人は彼女は蛇だろうと言った。
そしてまたある人は、未来から来たサイボーグだろうと言った。
サイレンの肉体は、人間が持つものにしてはあまりにも強靭すぎたからだ。
サイレンはその容姿と踊りで世界中の人を魅了したが、
世界中の誰も、サイレンのことを理解できなかった。
人々が口々にサイレンを褒め称える、その言葉はサイレンにとってノイズでしかなかった。
この世のすべての音はサイレンにとってはくだらない、雑音だった。
踊っているときだけはよかった。
すべての音は消えて、
サイレンは静かな舞台の上で踊ることができた。
だから自分が金儲けに利用されていると分かっていても、サイレンは踊るのをやめなかった。
「私、北部に行きたい」
北部とは、かつて日本だった北にある大きな島のことである。
北部の土地は、東側の国に併合されていた。
サイレンの母親は、北部で生まれ育ったという。
「次の公演なんてやめて、北部に行こう」
慰問の帰りのジェット機の中で、サイレンはマネージャーに告げた。
日本を舞台にした戦争が終わった直後、すぐに戦争の舞台は中央アジアへ移る。その後、アフリカで火種が上がった。サイレンは西側からの指示で、慰問のためにアフリカで踊った。
マネージャーは呆れた顔でため息をついた。彼は常に、サイレンの気ままな発言に振り回されて、疲れていた。
彼は周囲から気の毒がられていたが、同時に仕方のないことだろうとも思われていた。
冬に渡鳥が南を目指したり、
馬が水場を求めて走ったり、
動物が本能にしたがってすることを、一体どうやって人間が止めることができるだろう?
サイレンの魂は自然に生きる動植物のように素直に、生きるために必要なことだけを求めていた。
サイレンを舞台で踊らせることこそ無理があると、大人たちは理解していたが、資本主義はサイレンを舞台に登らせた。
「馬鹿なことを言わないでください。スケジュールは2年先まで埋まっていますよ」
サイレンの乗ったジェット機は荒野の真ん中で嵐に巻き込まれた。
やむなく不時着して近くの軍事基地に泊まることとなった。
そして、サイレンは人質になった。
「動くな!こいつの脳味噌ブチまけるぞ」
採掘場から脱走した戦争捕虜は、サイレンのこめかみに銃口を突きつけた。
採掘場は人間が入るには危険なため、一度採掘はすべて機械化されたが、人は採掘ロボットよりも捕虜を使う方が安いと気づいたらしい。
マネージャーや、西側の兵士たちは青ざめた。
サイレンが死ねば、その訃報は世界中、いや宇宙までもかけめぐるだろう。
その責任は誰が問われるのか?
反吐が出る、とサイレンは思った。
世界は人間に値段をつける。
今、サイレンの時価は世界最高額で、
この捕虜の時価は最底辺だった。
こんなにくだらないことはない。
サイレンは、自分の生命がどうなろうがどうでもよかった。
「ねえ、どうしてそんなことするの」
捕虜の青年の体の血は、沸騰しているかのように熱く、脈動している。
「おれを、故郷に帰してくれ!」
青年は吠えた。
その瞬間、サイレンの首を絞めていた青年の指先から、青年の憧憬が伝わってきた。
地平線の遥か遠くまで、ずっと麦畑が続いていた。
ぽつんと一軒、赤い屋根の大きな家がある。
空は青い。
雲はない。
故郷へのなつかしさを、そのときサイレンは初めて味わった。
「故郷を離れるということは、こんなにさみしいことだなんだ」
サイレンは自分の首を絞めている男の手に触れた。
「いいよ。私が連れて行ってあげる」
青年の手を引いて、サイレンはヘリコプターに乗り込んだ。
「私はなんでもできるから」
ヘリコプターのプロペラは爆音をたてながらどんどん加速して、陸を離れる。マネージャーは泡を吹いて砂漠の上に倒れていた。
「私ももう、故郷に帰る」
飛んでくるミサイルを避けながらサイレンは言った。
ヘリコプターはサハラ砂漠を越えて、大西洋を越えた。そしてついに、三日月状に連なる列島の北端に辿り着く。
「あとは一人で行けるでしょ?」
青年の故郷は、ユーラシア大陸の中央にあった。
サイレンはドアを開け放ち、はるか下の湖めがけて飛び込んだ。
ざぶん!
サイレンは滑らかに入水した。鮮やかな緑の水草が、サイレン体を包み込んだ。
人魚のように水を蹴って湖面に顔を出す。
湖畔の白樺はすっかり葉を失っていた。
針のように細い葉をしたトドマツだけが、変わらず青々としている。
北部の短い秋が終わろうとしていることを、サイレンは悟った。
サイレンは岸まで泳いだ。
落ちた枯れ葉は地面に降り積もり、絨毯のようにふかふかだった。
サイレンが体を震わせると、濡れた体と髪から水滴が飛んだ。
サイレンから落ちた水滴は、土に染み込んだ。
やわらかな風が吹いて、紅葉したミズナラの木の葉を揺らした。
役目を終えたミズナラの葉は枝から離れて大地に降り注ぐ。
カラカラカラ。
カラカラカラカラカラカラ。
降り止まない枯れ葉の雨。
サイレンは耳を澄ませて、じっと音を聞いた。
やがて風が止まる。
やがて訪れる静けさ。
無音の中で、水底にいるような重たい耳鳴りは祈りの音だ。
自分の鼓動すら遠い。
土を踏みしめた裸足から、やわらかな温もりが伝わってくる。
生まれてからずっと冷え切っていたサイレンの体が、温まりはじめる。
自分の体が冷たいのは辛いことだと、サイレンはしらなかった。
今までのサイレンの踊りは、遠い故郷を想う鳴き声だったのだ。
サイレンが背骨を動かすたびに、背骨のひとつひとつが、大地と接続されていく。
欠けたパーツを取り戻すように。
サイレンは大地にキスをして、
土の匂いをかいだ。
一人で生きるのはさみしい、
けれどサイレンは誰とも生きることができない。
人間はサイレンを理解しない。
サイレンの腕は泳ぐように宙を掻いた。
途轍もない冷たさに耐えて、
途絶えていた時間が流れ出す、
途方もない刹那を乗り越えて、
途切れ途切れだった永遠の、
静寂をサイレンは手に入れた。
終
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