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成功したはずだったリアコの末路 チャイコフスキーの妻・感想(ネタバレ)

とんでもない映画を見た。事前情報からして、チャイコフスキーとその妻アントニーナが死ぬほどギスギスして修羅場!みたいな映画だと思っていたけど(実際にそういうシーンはある)、本当はそうでもなかった。
女性の人権がまともに存在しない時代に、自分のアイデンティティーを模索して苦しんだ女性の話だった! チャイコフスキーがいなくてもこの映画は成立するので、伝記映画というよりはテーマ性で題材を選んだのだろう。

アントニーナは別にチャイコフスキーでなければいけなかったわけないと思う。経済的な事情で音楽院を辞め、親とは折り合いが悪く、自分の思うとおりに生きられない田舎貴族の女が、自分が才能を認めた男の妻となり、支えることで得られる社会的なステータスがほしかっただけなのだと思う。つまりは、アントニーナは自分を滅して支える妻という肩書きがほしかっただけなのだ。そして、彼女は聡明なのでそこらに転がっているくだらない男と一緒になるのは嫌だったのだろう。女性のそういう「内助の功」願望みたいなのを描くのが上手いと感じた。
厳しい家庭環境から抜け出したかったのもあるのだろう。女性が破れかぶれになって勢いで結婚し、上手くいかなくなるという描写は文学でもありふれている。この時代は結婚しか現状を打開する手段がなかったという厳しい現実も表現している。

アントニーナはチャイコフスキーの子供を産み、家族で幸せな写真を撮影する妄想をするが、そこでの会話は全て現実とは真逆だ。夫の子ではない子供たちは劣悪な施設に送りつけ、小さいうちに死んでしまう。教会の前には乞食たちがたむろし、非道な夫への恨み節を叫びながら服を引き裂く女が暴れても「いつものこと」だと受け流す。普通の映画ならカットするであろう描写も、この映画では容赦なく現実を描き出す。
鬱屈としていて暗いスクリーンの中では、ロシアのむせるような黒々しさも美しく見えてしまう。最後の精神病院でのロングカットは、絵画の中で踊っているかのような幻想的な光景と、アントニーナの閉ざされた未来の暗示が交差して私たち観客に強烈なインパクトを残す。

この映画は、ただの「ゲイの男に恋をするも報われず、最後には発狂する女」ではない。確かにあの熱量でずっと迫られてしまったチャイコフスキーも気の毒ではあるが、きっと彼が異性愛者でアントニーナを愛したとしても、彼女の激情は愛だけではなく、承認欲求や逃避願望も含まれているのだから恐らく上手くいかなかったのではないかと私は考える。
今アントニーナが生きていれば、堅い意思と行動力をもってしてもっと別の未来を描けただろう。


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