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孤独の美術 ① 2023/1/2 『ヴァロットンー黒と白』 三菱一号館美術館

三菱一号館美術館の周辺に植えられた木々は、一年中クリスマスのようなイルミネーションを纏っている。そのおかげで、年末年始を孤独に過ごす私の心も少しばかり色づく。
「今年の年末は一緒に東京で年越そうね。」と約束をしていた同居人が、あっさりと自分だけ帰省し(やがっ)た。理由は「実家で飼い始めた柴犬に会いたい」かららしい。うん、柴犬を出されたらしょうがない。いくら同棲をしている程度には相手の信頼を得ている私でも、犬には勝ちようがない。ん?というか、犬はもとより、自分との予定が、同居人の推し等々のイベントに勝てた試しがないな・・・。


イルミネーションのトンネルを抜けて、レンガ調の三菱一号館美術館へ入る。ヴァロットンという、これまであまり関心を持ったことがなかった(聞いたことがあるようなないような)画家の特設展を観てみることにした。
1月2日だから、事前予約をせずに行って大丈夫だろうと当日券を買った。案の定ガラガラで、思う存分作品と向き合う時間があった。思えば三菱一号館美術館があまりにも混雑していて、他人のハゲ頭や白髪頭しか見えない、という状況になっているのをあまり見たことがない。超優良美術館だ。余裕があるので、解説や絵のキャプションも丁寧に読みながら進むことにした。
ヴァロットンはその生涯で、絵よりも木版画を多く作成した。展覧会でもちょいちょい油彩画が展示してあったが、主には黒白の木版画が展示されている。彼の木版画は新聞や本にも多く掲載され、版画の方がいわばライフワークだったようだ。
展示の序盤で私は気づいた。「あ、ヴァロットンさん、さては暗い人だな。」と。本人の性格が暗かったかどうかは知る由もないが、『眠る画家の母、横顔』という女性が横たわって目を閉じている絵があり、なぜかその女性から生気を感じず、勝手に死の絵だと解釈してしまった。いや、おそらくこれはただ眠っているだけの画家の母親なのだろうけど、ヴァロットンの版画に「暗い」ものが多いことはあながち間違いではなかった。
それはヴァロットンが、人間の「闇」にクローズアップしているからだ。要するに、風刺画的な、メッセージ性の強い絵をかなりの数描いている。そんなこともあり、ヴァロットンが活躍した19世紀末のパリの庶民の人気は、ムーラン・ルージュやサーカス、可憐な娼婦といった華やかなパリを描くロートレックの方にあったらしい。
展覧会でも、テロ、犯罪、痴話話などがモチーフの版画が多くあった。
中盤で印象に残ったのは、『祖国を讃える歌』という1893年の作品だ。おそらく愛国者の演説(歌)を聴く群衆が描かれており、その中には愛国者に賛同して手を叩くものもいれば、退屈そうにうつむく者もいる。絵の横のキャプションには「歪んだ愛国主義が差別的な事件の引き金にもなり得ることを示しているのかもしれない」と書いてあり、「現代日本への警鐘ですか・・・?」と思わされる。
それはともかく、ヴァロットンの版画は、群衆の喜怒哀楽やモノの陰影などが版画とは思えないほど精緻で素晴らしい。
男女の情事を描いた連作『アンティミテ(親密)』というシリーズでは、とりわけその技巧が輝いていた。中でも『取り返しのつかないもの(アンティミテX)』が強く印象に残った。貴族っぽく立派にひげをたくわえた男性がソファに座ってどぎまぎしている。その横には奥さんと思わしき女性が膝の上で手を組み、なにか「呆れ」のような表情をしている。
のちに事前知識がない同居人にこの絵だけをいきなり見せ、「これ、どんな場面の絵だと思う?」と聞いてみても、「どうせ男がギャンブルにでも負けたんでしょ?足元に馬券が見える。」と答えた。もちろん、実際には馬券など描かれていないが。
本当はこの絵は「女関係でやらかした男と、その妻」といったところなのだろうが、誰が見ても焦り・困りのような感情の男と、呆れ・悟りのような感情の女を見てとれる。ヴァロットンの版画は、それくらい「説得力」と「技術」がある。

私は、ヴァロットンにとって色彩は、表現するのに過多だったのだろうなと思った。明るくはない主題を色彩で表現するよりは、黒と白のみの版画の世界で表現する方が適切だ、とも思ったのかもしれない。この世で最も暗い色と最も明るい色のみを用いて細部まで表現できることにシンプルに吃驚したし、それが可能な画家はそう多くはないだろう。
そして、彼の作品作りでの主題は、鑑賞者に「取り返しのつかないもの」について気づかせることかもしれない、と感じた。そういう意味でも、『取り返しのつかないもの』がヴァロットンの美術人生そのものを体現しているようで、頭の中に残ったのかもしれない。

後日放送されたテレ東の『新・美の巨人たち』でも、文藝春秋の編集長が、ヴァロットンについて「世の中の暗部から目を背けてはいけない、ということを教えてくれる」とおっしゃっていた。そうそう、まさにそういうことが言いたかった、と表現の文春砲を喰らった。


三菱一号館美術館を後にした私は、せっかく洒落っ気付いた丸の内に来たのだから何か食って帰ろう、と東京駅をぶらついていた。適当に歩いていると見たことのある地下街に出た。「あっ、これエリックサウス(南インドカレーのお店)があるところだな」と気づき、南インドカレーのミールス(定食)を食べて帰ることにした。エリックサウスには一度訪れたことがあるが、食に変に保守的なところがある私は、他所を開拓せずに南インドカレーを食べることにした。
やたらと狭いカウンター席で、半ば肩を外すようにして南インドを堪能した。期間限定の鯖のカレーが辛くなくマイルドで美味しかった。ご飯は素晴らしいのに、隣の咀嚼音が聞こえるほど狭い席では集中できず、Twitterでプチ有名人のエリックサウスの社長に「広くしてください!」と直談判しようかと迷った。が、私の図体がデカすぎるだけである可能性がかなり大きいため、やめておいた。

「三菱一号館に来る以外、丸の内とは縁がないなあ。」と呟きながら、私は大きい体を揺らし、帰宅するために中央線に乗り込んだ。


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