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マルクス「資本論」ー剰余価値の率と剰余価値の量
読書会をしたものの、よくわからなかった章。
剰余価値の質と量の話。これを考えるための3つの法則が紹介される。
一つ目は「可変資本×剰余価値率=剰余価値量」そして「労働力数×労働力の搾取度=剰余価値量」
もう資本論を読んでいると、延々とマルクスは「剰余価値は労働者から搾取して生み出されるものである」ということしか言ってない気がしてくる。その話をいろんな角度から、「ここから見ても搾取されてるよね
マルクス「資本論」ー労働日
第8章「労働日」後半。
そもそも労働日とはなにか。
資本家は「労働日とは毎日24時間から、それなくしては労働力が絶対に再度の用をなさなくなる僅かな休息時間を差し引いたものである」というだろう。つまり、資本家から見た労働者は生活全般を通しても労働力以外の何物でもないということ。したがって、資本の自己増殖のためのものである。
ここまででも結構ひどい。でも、そうかもとも思う。この後にも書いてあった
マルクス「資本論」ー労働日
第8章労働日
「労働日の限界」というなんとも言えないタイトルから始まる第8章。昨今の労働時間削減の運動の論拠にもなっている重要な章。
労働日は可変量(!)ではあるものの、ある限界内においてのみ変動しうる。(当たり前だ!)
第一に肉体的限界。
第二に精神的な諸限界。
労働者は、食事・休息だけでなく、精神的・社会的欲望を満たす時間を必要とする。
しかし、資本家は自分が買った商品(労働力)の使用価値か
マルクス「資本論」ー不変資本と可変資本
不変資本と可変資本とはなにか、という語句説明的な章。(なのであんまりおもしろくない)
生産手段と生産物の関係性は、比例的に決まっている。
例えば、ある量の原料からできる生産物の量は決まっている。1キロの綿花から1トンの撚り糸が作られたりはしない。
この決まっていて、変わらない資本のことを「不変資本」という。
その一方で、労働力の価値(資本家が労働力をいくらで調達するか)と、労働力の生み出す価値
マルクス「資本論」ー価値増殖過程
商品は交換価値と使用価値が統合されたものである。これは「部分の総和」ということではなく、二つの価値が一体となり、商品を作り出しているということである。
同じく、生産過程においても、労働過程と価値形成過程は分けることはできない。
→ これだけ読むと、「でしょうね」と思う。
例えば、ハサミで言うと「なにかを切れる」という使用価値と、「デザインがかわいい」という交換価値は不可分であると思うと、これは「で
人類学者・磯野真穂 オンライン授業「他者と関わる」第三回講義
今回は組織を考える回。
組織の人間関係はそんなに嫌じゃない。
そもそも仲良くならなくていいと思ってるし、仕事が円滑にできればそれでいい。
たまたま気の合う人がいて仲良くなれたらラッキーで、仕事の人間関係には期待してないから楽ちんだ。
でも、それはわたしのプライベートな人間関係観であって、仕事を進める上での組織を考えると見解は全然違ってくる。
参加者とのディスカッションでも一番出ていたのが「組織の
人類学者・磯野真穂 オンライン授業「他者と関わる」第一回講義
あんまり人とうまく関われない(初対面からフレンドリーに話せるけど、そこから一向に仲が深まらない、、、)ことがコンプレックスなわたしが、「他者と関わる」を考えてみる。
人と関わることってなんだろう。
どうして関われないと、コンプレックスになったり、さみしくなったりするんだろう。
そもそもわたしはどうやって他者と関わっていて、その関わりは普遍的なものなのか、社会によって変化するのか。
教えて、磯野先
神戸分析心理学クラブ主催の公開対談「ユング・イン・アフリカ」(大塚紳一郎×磯野真穂)
お二人の話を聞いて、他者との出会いを考えた。
大塚さんに教えてもらったユングで言うところの「集合的」な心のあり方を考えると、私たちは常に出会い続けてるんだろうと思う。
ユングは心を「集合的」なものと考えた。意識・無意識だけでなく、純粋に個人的なものではない(“日本人として″のような意識など)ものの集合で心は構成されている。
私たちは毎日、通りすがって顔も見てないような他人と出会い続けている。
マルクス「資本論」ー労働過程
マルクスの読書会に参加(途中参加なので資本論の途中から)することにしたので備忘録。
労働とは人間と自然の間に起こる一過程を指す。
彼の外にある自然に働きかけ、同時に彼自身の自然を変化させる。
労働の終わりには、自然的なものの形態的変化だけが引き起こされるのではなく、観念的に存在していた結果が表層として現れる。
(例えば、パンを作るとして、自然『例えば小麦粉』に働きかける『例えば捏ねる』と、『パン