Voy.8【これイチ】いつからあるの?北極海航路のヒストリー
【これイチ】『北極海航路の教科書』シリーズ **第8航海**
温故知新とは言うけれど
今日、船舶航行の世界にもデジタル化の波が押し寄せ、AIを活用しての「自動操船」や「運航無人化」などが現実的になってきており、技術革新と共に安全運航の要であった船舶職員の在り方が変わりつつある。
私が航海士だった時代には、GPSで自船のポジションがわかるだけでも相当楽をさせてもらっていたという感じがする。レーダーやGPSがない時代に船員だった人々には尊敬の念を禁じ得ない。
北極海航路でも、より安全に船舶が航行できるように、ソフト面・ハード面の両方で様々な変化と進化があったことは想像に難くない。
海氷が浮かぶ水面を航行できるのは、船舶そのものの耐氷性能であったり、パワフルな原子力機関を搭載した砕氷船支援などの技術的な発展があってこそだ。
また、北極圏の環境が温暖化の影響を受けて変化してきていることも、北極海航路での船舶航行という側面においては、いまのところ安全サイドに働いている。
北極海航路が世界的に注目を集め始め、ロシア国外の船社や貨物が利用するようになった2010年よりもずっと前から、「北極海」は存在していたわけであるが、その当時は、どのように利用されていたのであろうか?
この【これイチ】シリーズが目的とすることの一つとしては、「北極海航路の国際的な利用の推進と発展」の道筋を考えることである。
将来を見通すにあたって、過去から現在の経緯というものを理解しておくことは、あらゆる分野において共通したアプローチであろう。読者によっては、このような歴史の話は退屈かもしれないが(自分がそうだから)、本航海では北極海航路における過去から現在に至るヒストリーについて見てみたい。
命がけの大北極航海時代!?
陸上に住む人類を危険な海へと駆り出させる理由は、「未知への探求心である」。大航海時代の船乗りたちにとっては、誇張された表現でもないだろう。
ヨーロッパでは、14世紀ごろからの水産資源、とりわけ、捕鯨に代表される漁夫たちの漁場拡大に伴う「新航路の開拓」が、ふね(そのときの性能からして「舟」と記述されることもある)を、より北方へと進めていった。
やがて鯨の漁獲高が減少するに伴い、航海の目的は、漁業から外国間との交易や、外国資源の調達などへと移行し、16世紀の「大航海時代」を迎える。
船乗りの経験からも言えることであるが、航海士の大事な仕事は、自船の位置を把握することである。
この大航海時代を支えたイノベーションは、羅針盤や時計、海図などをはじめとする航海器具の普及や航海術の発展により、自船がこれまで進んできた針路と時間から、自船の現在地をより精度よく推測できるようになったことにある。
16世紀後期~17世紀初頭には、オランダは毛皮や木材資源の調達のために行っていたロシア・アルハンゲルスクとの交易をきっかけに、より東の海域を探査するようになる。当時はまだ、北極海にも開氷域が存在し、極東へ通ずる航路があるだろうと思われていたようだ。イギリスのヘンリー・ハドソンなどの当時を代表する航海士により、極東への航路を開拓するべく、幾度に渡り探査航海が実施されるが、開氷域の存在は確認されることなく、また、志半ばにした多くの犠牲者をも伴いながら、その後2世紀ほど時が経過する。
北極海航路の完全航海達成!そして日本へ
19世紀に入ると、ふねは、これまでの帆による推進だけではなく、蒸気機関(エンジン)を搭載した船舶が登場する。航海史における新たなイノベーションだ。
フィンランド人の探検家アドルフ・ノルデンショルドは、帆と蒸気機関の双方で推進力得られる「機帆船」と呼ばれる、当時は最新鋭のドイツ製「ヴェガ号」に乗船し、1878年6月に約30名の乗組員と共に、北極海航路の開拓航海へとスウェーデンの港を出港した。
同年9月には、北極海航路の東の玄関口である「ベーリング海峡」付近へと到達するが、あとわずかのところで、結氷に阻まれることとなる。ヴェガ号はそのまま越冬し、翌1879年7月に海氷を脱出し、ベーリング海峡を越えて太平洋へと抜けることで、世界で初めて北極海航路の横断に成功した。
ヴェガ号は、途上の海域を調査しながら、そのまま南下し、同1879年9月に横浜港へと入港した。
なんと、世界初の北極海航路横断船は日本の港へ寄港したのだ!
しかしながら、このノルデンショルドらが成し遂げた功績は、世界にはそれほど響かなかったようである。
なぜならば、この出来事の10年前(1869年)に、「スエズ運河」が開通していたからだ。開通当時のスエズ運河は、高額な通航料や通航できる船舶の制限などから、しばらくの間、商業航路としての利用は敬遠される傾向にあったようだが、ヨーロッパからアジアへ抜ける最短ルートとして、「スエズ運河」経由のルートは次第に海運市場の支持を得ることとなっていった。
そのため、距離的な利点は認識されながらも、海氷が立ちはだかる北極海での航行リスクを掻き消すまでの動機創出には繋がらなかったようだ。
ノルデンショルドの功績は、単に北極海航路の横断だけにとどまらない。航路開拓に伴い、北極圏の豊富な資源を獲得できる道筋ができたことは、ノルデンショルドのフォロワーを創出させるには十分な理由であった。
1876年から1919年の間には、じつに120回を超える北極海での航行記録が残っている。しかしながら、それらの航海記録の中には、「遭難」という結末を迎えたものも少なくなかった。
そこで、北極海での航海をより安全なものにするため、1898年に世界初の蒸気機関砕氷船「エルマーク号」が建造された。エルマーク号は、その後の北極海での調査・観測活動や航路整備をはじめ、北極海での海難救助などでも大いに活躍した。
20世紀の急速発展
1917年からの「ロシア革命」時代になると、軍事的な側面も手伝い、ロシアにおける北極海での航行実績、航行技術が急速に成長することとなる。
1930年代に入ると、砕氷船による北極海の航行船団が編成されるようになり、資源輸送をはじめ、調査活動や軍事活動が盛んに行われ、ノルデンショルドが1年越しで達成した北極海航路の横断は、わずか1シーズンで完遂できるようにまで成長していった。
1932年には「北極海航路局」が設立され、航路の管制と開発を行う体制が整っていく。また、同時期にはディクソンやチクシなどに、北極海沿岸の港が開港し、補給基地などの航路インフラが充実していく。また、砕氷船の就航数も増えることで、「砕氷船による貨物船の支援航行」というスタイルが確立されていく。
第2次世界大戦下においても、その戦略的物資の輸送において、北極海での航行実績が重ねられていった。
世界大戦後の商業的価値向上に向けて!
1959年、初の原子力砕氷船「レーニン号」が就航し、その後も原子力機関を搭載したパワフルな砕氷船団の充実により、ニッケルをはじめとする北極海沿岸の資源輸送は、通年ベースで行われるようになっていく。
1987年には、ソビエト連邦(当時)のゴルバチョフ書記による「北極海航路の国際航路としての解放宣言」により、第2次世界大戦からその後の冷戦時代に培われた、北極海航路の軍事的要素を薄めることで、資源輸出の拡大による外貨獲得へと戦略の舵を切ることとなる。
1990年には、北極海航路を航行する船舶の構造要件や、船員の訓練要件、航行手続き、砕氷船の有無などに係わる国内法令を発効し、外国船による北極海航路の利用を本格的に支援するようになる。
同法令は、2013年に「北極海航路管理局」の設立と共に改定され、航行申請や航行条件が緩和されている。
その後のストーリーについては、これまでの航海(記事)で説明した通りで、北極海の資源、特に液化天然ガス(LNG)の輸出拡大に伴い、北極海航路は、国際的な航路として確固たる地位を築きつつある。
将来における北極海航路の課題は「北極海航路の国際的な利用の推進と発展」だ。
これは、国際物流網の再定義というテーマにおいて、特にアジアとヨーロッパを結ぶ海上物流ルートにおける新たな選択肢のひとつとなっていくことにある。
確かに道は険しい。足下ではテクノロジーだけでなく、政治的な困難に直面する機会の方が多いが、筆者は北極海航路の開発に前のめりだ。
(本航海は、文字ばかりで退屈でしたでしょうか?すいません。。)
続きはコチラ ↓
マガジンはコチラ ↓
本航海(記事)の参考文献:
2000 シップアンドオーシャン財団_北極海航路-東アジアとヨーロッパを結ぶ最短の海の道
2010 奥正敬_探検家アドルフ・ノルデンショルドがスウェーデンに日本関係書物コレクションをつくった話
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?