![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/45359046/rectangle_large_type_2_f8083cf9a9e29ebafe72317390794630.jpg?width=1200)
生活保護とDVから抜け出したのは
はじめまして。まずは簡単な経歴を紹介いたします。
幼いころに両親が離婚→父に引き取られる。18歳になり、出身地の北海道から母のいる愛知県へ引っ越し。父が私に「出ていけ」と言ったからです。その後はフリーター生活です。掛け持ちしながらお金を稼ぎました。しかし「鬱病」「不眠症」「椎間板ヘルニア」を患いしばらくの間休職すると、あっという間に貯金は消え失せました。治った後はとにかくお金を取り戻したくてキャバクラに勤めました。ストーカー被害に遭い、北海道に逃げるように帰郷。その後しばらくして、元同級生の彼と同棲生活を始めました。バリバリの営業マンとして物凄い業績をあげ、役職まで上り詰めましたが、病気になり退職。それから、地獄のような日々が始まりました。
私はちょっと前まで生活保護受給者で、同棲していた当時の彼に精神的DVと受けていました。生活保護生活を送ることになった理由としては、「線維筋痛症」という難病を罹患したためです。この病気は、全身に激痛が走るという原因不明とされる病気です。正確には、日本では難病指定を受けていない病気ですが、アメリカ……世界規模で見たら立派に「難病」とされる、日常生活もマトモに送れない病気です。今、この記事をタイピングしている両手の指も節々が酷く痛んで、やっとの思いで何度も誤変換→修正を繰り返しながら書いています。
当時同棲していた彼は国立大学に通っていて、とても頭がよく知識も語彙力も豊富な人でした。ゆえに、罵倒の言葉もたくさん知っていて、ありとあらゆる罵詈雑言を私に浴びせてくるのでした。痛みで働けない私でしたが、料理だけは頑張って作っていました。しかし、彼の口から「美味しい」という言葉が出てくることは1度たりとも無く、飛び出してくるワードはすべてイチャモン=文句ばかりでした。料理を頑張ることが馬鹿らしく思えてきて、私はいつしか料理すらしないただのニートになっていました。
働けない。働きたい。もともとは仕事人間でしたから、働けないということがストレスになり、業績をあげられないことや彼からの罵倒の嵐により、自己肯定感も低く低くなっていきました。そうして私は近所の心療内科で「躁鬱病」だと診断されました。合わせて「不眠症」「記憶障害」もありましたから、「線維筋痛症」も合わさって、普通に生きることがとても辛い時期でした。
「記憶障害」と「躁鬱病」のせいで、彼から罵詈雑言を浴びせられるたびに、三環形と言われる抗うつ薬と睡眠薬を100錠以上焼酎で流しこみ、救急搬送されるという日常を送っていました。時には、無意識下で、おばあちゃんの形見である三尺帯で首を吊って、気づいたらおしっこを漏らしながら床に倒れているなんてこともありました。きっと私は心底死にたかったのです。数えきれない程、自殺を繰り返して、数えきれない程、ギリギリのところで助けられてしまうという経験をしました。
彼と同棲を始めて三か月の時点で、私はすでに「別れよう」と言っていましたが、彼は「はいはい」と流すばかりで、何度訴えても無駄に終わり、同棲生活を終えることは出来ませんでした。彼からのDVを受けながらの闘病生活は、3年半にも及びました。
そんな生活も、最近、終わりを告げました。現在、夫となった人と出会ったためでした。夫とは友達含む自宅での飲み会で初めて遊んで、その一週間後には交際することが決まりました。形式上彼氏がいる私は「二股になってはいけない」と思い、誠実を心掛け、彼に伝えました。
「好きな人が出来たから別れて欲しい。まだ付き合っていない。あなたと別れてあの人と付き合いたい。お願いします。私と別れてください」
彼はその夜私の寝顔を見ながら酒を飲みひとしきり泣いたと、翌朝になって伝えてきましたが、私にはすでに情なんてものはありませんでしたから、「そっか」とだけ伝えました。彼と正式に別れた私は、すぐさま夫となる人に連絡し、ついに交際が始まりました。彼は作業場として安いアパートを借りていましたから、そこに荷物を運ぶと言うので、お願いしました。その日のうちに、彼は自身の荷物をまとめ始め、同棲生活は幕を閉じたのでした。
夫となる人と交際した一週間後には、結婚することが決まりました。芸能人のニュースでスピード結婚の情報なんかをテレビで観た時、ありえないな、と心の中で蔑んでいましたが、まさか自分がスピード結婚をすることになるだなんて、思いもしませんでした。プロポーズから二週間ちょっと経った日に、私たちは入籍し、お互いをよく知らないまま夫婦になりました。
入籍と共に生活保護は廃止になり、私は夫の扶養に入る形になりました。不安の多い新婚生活が始まりましたが、結婚して数か月、未だ喧嘩の1つもしていません。愚痴も無い、文句も無い。思いやりと優しさに溢れる夫婦生活を送っています。
ポジティブ思考な夫と過ごすうちに、ネガティブを極めていた私も少しずつ明るくなり、友達に「よく笑うようになった」と言われるほどでした。「線維筋痛症」も「躁鬱病」も「不眠症」も「記憶障害」も、全部全部、徐々に回復していきました。今では早寝早起きして毎日三食食べるという健康的な生活を送れています。
「線維筋痛症」は完治する病気ではありませんから、近頃はあまり調子が良くないので痛みと闘う毎日ですが、それでも出来る家事はこなして、在宅で出来る仕事を探して過ごしています。夫の役に立ちたい。夫にとって自慢の妻になりたい。夫の横にいて恥ずかしくない人間になりたい。夫に捨てられたくない。夫とずっと一緒にいたい。
――すべては夫のために。
そう思いながら毎日を生きています。死にたがりの私は、いったいどこへ消えたのやら。自殺癖はすっかり無くなり、今は百歳まで生きたいとさえ思っています。大好きな夫と、少しでも長く一緒に過ごせるように。
最後に。私は物書きをしています。
暇さえあれば文を書く。インプットのために本を読む。全身に激痛が走る理不尽な病気を持っていても、文を書くことなら出来る。そう思っています。家事をこなしながら、家でも出来る『書く仕事』をしたい。スキルを認められて働けたら、幸せだろう。いずれは小説家になりたい。私を世の中に広めたい。それが私の夢です。
長々と書いてしまったのは、私のお喋り癖のせいですね。ごめんなさい。読んでくれた人に、ありがとう。