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[2000字エッセイ#7]少年少女は死んだのか?——「後日譚」から読み取れるじんの「決別」について

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 最後にnote上に短い2,000字エッセイを発表して以降、気づいたらオリンピックが開催され、原爆記念日が訪れ、終戦記念日も訪れていた。定期的に発表するとしていた自身のエッセイが更新できなかったことを反省しつつ、窓を開けるとともに耳につくセミの音と、すでに半分が過ぎてしまった8月を、今こうして思い返す。

 既に数日昔のこととなってしまったものの、私にとって8月15日は紛れもなく終戦記念日でもある一方で、カゲロウプロジェクトの日でもあった(無論、こうした主張が当時批判を受けてきたことも承知しているが)。2010年代前半あたりのボーカロイド文化が一番親しい私にとって、一方でカゲロウプロジェクトが登場して社会現象となり、他方でwowakaとハチ、kemuといった有名ボカロPが続々と新曲を公開し、そしてヒトリエと米津玄師、PENGUIN RESERCHとしてメジャーへと活動の舞台を移行させたという、とても変化にとんだ時期を見てきた。多くの有名ボカロPたちがメジャーへと移動していき、ボーカロイド文化の土壌であったニコニコ動画は次第にYoutubeへと移動していくなか、いつしか「ボカロ終末論」なるものも登場したように思う。こうした2010年代はよくも悪くもボカロ文化の一つの転換点であり、それまでのネットが抱いていた「接続の夢」——「いくつもの線は円になってすべて繋げてく」という言葉にあるように、世界規模で同時期で人々が繋がっていくという「夢」——が終わり、その後にどういった文化を構築するかといった、大きな問題に立ちはだかった時期だった(そうした変化については、また詳細に解説したいと思う)。

 そんな時代が転換するなか、カゲロウプロジェクトは2011年に「人造エネミー」の登場とともに始まった。しかし、そのプロジェクトそのものを有名にし、かつ本格化したのは紛れなく、楽曲MVに紛れもなくオリジナルのキャラクターが登場する「カゲロウデイズ」だ。オリジナルのキャラクターとともに、複数楽曲を組み合わせることによって登場する大きなストーリーこそカゲロウプロジェクトの最大の魅力であり、そうした物語は『メカクシティデイズ』と『メカクシティレコーズ』という二枚のアルバムを通して展開されていった。そうした物語は小説や漫画、アニメ等を通し、2010年代後半までも続いていくことになったが、特に音楽を中心にした場合では、カゲロウプロジェクト全体のエンディングテーマである「サマータイムレコード」の公開時期を鑑みると、2013年を一つの区切りとみなした方がよいだろう。

 それからちょうど10年後のにあたる、2021年8月15日の12時半。じんの公式アカウントから「後日譚」という楽曲MVが公開された。本楽曲はアルファポリス CM『終わりなく拡がる世界』のタイアップソングとして作成されたものであり、小説も執筆し続けたじん自身の内面をも歌ったものとして、本人から発表されている。そうした姿勢は本楽曲の歌詞にも散見され、自身のことを「無謀」だとか「馬鹿」だとかいうフレーズによって卑下しつつも、それでも「続く」という言葉を残している点がとても印象的だ。だが、私にとってそれ以上に、大きく印象に残ることがあった。それは、小説家である「じん」のことは描いているが、「自然の敵P」というボカロPのこと、そしてカゲロウプロジェクトのことも、ここには描かれていないのではないか、ということだ。2011年にカゲロウプロジェクトが始まり、その10年後にあたる2021年の8月15日という日にちはどうしようもなく、彼にとっても大きな意味を抱えざるを得ない。にもかかわらず、彼はカゲロウプロジェクトのことは話さず「自分自身」の話をした。

 この姿勢は私にとって、ある意味でカゲロウプロジェクトだけでなく、ボーカロイド文化に対する彼の「決別」にも見えた。本楽曲MVは学校が舞台であり、ガスマスクをつけた少年が登場している。「学校」という舞台とガスマスクをした「少年」はまさに、少年少女がつねに物語の中心であったカゲロウプロジェクトを私に連想させる。その一方で、常にボーカロイドがそばに居続けたカゲロウプロジェクト楽曲に対し、本楽曲ではほかでもないじん自身が歌を歌っている。また、楽曲内でしきりに語られる「少年の死」も、注目すべき点だ。「後日譚」では「あの日死んだ少年に捧ぐ」という歌詞が、楽曲内でもとても印象的だ。ここでの「少年」とはいったい、誰のことだろう。それは私にはわからないし、あるいは彼自身の、友人だった人かもしれない。しかしながら、10年後の8月15日というあまりにも意味がある日の12時半という時間に公開されたことを考えれば、私はこの「少年」という言葉を聞いて真っ先に、カゲロウプロジェクトに登場する少年少女たち、つまりはメカクシ団のことを想起せざるを得なかった。

 カゲロウプロジェクトのオープニングテーマである「チルドレンレコード」では「少年少女、前を向け」という言葉を通し、当時の小中学生の背中を押してきた。そして、その中には紛れもなく私もいた。それから10年後、8月15日の12時に公開された本曲で歌われた「少年の死」はある意味で、カゲロウプロジェクトの「死」とも読み込める要素を私たちに提供しているのではないだろうか。私はそのうえで、かつて米津玄師やwowakaが「砂の惑星」と「アンノウン・マザーグース」で行った、ニコニコ動画やボーカロイド文化との決別のように本楽曲が聞こえてしまい、どこかさみしい間隔二襲われてしまった。また一人、ボーカロイドから決別してしまうのだろうか、と。もしくは、彼自身も「カゲロウプロジェクト」という縛りに拘束されてしまい、まさに「少年」という枠組みから脱出できないことに対する苦悩が、この「後日譚」の中には漏れ出ているのかもしれない。だがいずれにせよ、そうした状況からの脱却はある意味でカゲロウプロジェクトともボーカロイド文化とも、決別することを意味するだろう。彼はこれまで作ってきたものでもない、全くの新しいものを作り出すため苦悩と葛藤が、本楽曲には隠す様子もなく見えている。

 そう考えると、少年少女はもう死んでしまったのか。だがその先に、何があるのだろうか?10周年を記念して公開された「チルドレンレコード」の再録版とともに再始動が宣言されたカゲロウプロジェクトであったが、その先は一体どこにあるのだろうか。少なくとも今は、「後日譚」で彼が「続く」という言葉を残したように、苦悩しながらもそれでも続く彼の続きに、私は期待するしかないだろう。

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