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2024年の記録
(約8,600字)
12月30日、私は20代を終えた。しんみりする気持ちの半面で、いつもと変わらない日々がこれから先も続いていくのだろうという気持ちである。京都での人間関係がある程度リセットされたからか、あまり周囲の顔をうかがう必要もないのが少し楽な気分だ。とはいえ、実家に帰るときっと将来のことについて詰問されるのだろう。博士課程中退の最終学歴が気に入らない自分は学位を取ってからその先の人生を考えたいとはよく言っているが、それがいつごろになるのかはいささか不透明だ。今はただ、自分のできることをするまでだろうと思ってやまない。
さて、今年は京都から広島に引っ越し生活が大きく変わった一方、もともとインターネットが活動拠点としていたukiyojinguにとって大きく変わったことはなかったようにも思う。2023年に発表した『思考実装』以後、就職活動が図らずもデジタルデトックスとなったが、引っ越しして入職後に生活が安定してから、既存曲のリメイクというもとで新たな投稿を始めたのが今年の6月1日だった。その後すぐにニコニコ動画へのサイバー攻撃が実施され、いつの間にかデジタルデトックスの延長がなされていくことになり、そのまま『都市巡礼』シリーズの公開がやや遅れてしまったように思う。様々な計画の遅れを生じさせつつ、本年は6本の楽曲+1本のトレーラーを投稿することが出来た。加え、批評活動においても3冊の同人誌を寄稿することもできた。20代の終りを前に、本年の活動記録を残すことにしたい。
音楽
ukiyojingu『都市巡礼』Teaser Movie
ukiyojinguは、思えば8年ほど昔に始まった。「京都らしい名前を」という理由で生まれたukiyojinguという名前だが、その名前に「憂き世」とあることからか、最初から現実主義的な音楽を目指していた——或いは、むしろ名前が無意識理に方向性を決めたのかもしれない。京都で生まれ関西で育った私は、都市しか知らない。碁盤の目と形容される京都市街、そしてその中でシステマチックに駆動する人間の様相。大学生になって初めて一人で行った渋谷や新宿の、プログラムされたかのように動く人の流れ。全く思想も行き先も異なるはずの人びとによる、エラー一つない完璧な動きのように感じさせてくれた都市の風景は、私にどこか崇高ともいえよう美しさを感じさせた。その素晴らしさに感化された私は、そんな動態的都市を憂き世より眺める地点を作る場所として、このukiyojinguという名前を再定義した。
そんな私が最初期の作品を改めて整理し、『都市巡礼』という名前のもと発表するのには二つほど理由がある。うち一つは個人的なことなのだが、昨年に行った就職活動が結果的に巻き起こすことになった、デジタルデトックスに起因する。昨年まで続けていた大学非常勤講師の仕事は私にとって紛れなく良い経験だったが、非常勤講師をいつまでも続けることができない手前、就職活動を行なっていた。その間、依頼を受けて執筆させていただいた各種論考を除いて、自ら新曲を投稿することはしなかった。それは結果として、ニコニコ動画と距離を置く理由にもなった。私は言語が十分な枠組みをもってして運用されることなく、ただ横滑りになって誤配を繰り返す果てに誰かを攻撃する光景を見続けるのが苦痛だ。デジタル空間が須くそうなのであれば、私はそれらといかに関係と保つかを慎重に考える必要性を与えてきた。
ところが、2か月前にあったサーバー攻撃は、意図せずデジタルデトックスを延長させた。まるで現実世界での交流が絶たれた数年間の反動かのように、今度はデジタル空間でのディスタンスがとられる。セルフプロデュースに勤しむ若手ボカロPの多くがYouTubeをはじめ他の動画投稿サイトで活動を継続する姿はニコニコ動画の今日的不要性を反映しているかのようで皮肉だが、ともあれ、これは換言すれば、今の私たちはニコニコ動画を失った程度でデジタルデトックスはできないということだ。私たちはやはり、どこまでもデジタル空間から逃げられないのだろうか。どこまでもそこに縛られるのだろうか。
かくして、個人的理由とKADOKAWAへのサーバー攻撃という、二重のデジタルデトックスに伴って、私は改めてデジタルなものから「都市」へ目を向けるのだ。
ukiyojingu+結月ゆかり『fraction』(新編集版)
かつて自分が通った都市を巡礼するかのように、2017年3月にこの楽曲を今一度見直し、作り直す。
この曲が2017年に投稿されてから、もう7年以上が経過してしまった。当時まだ何も知らない大学生だった自分はいつしか大学院博士課程まで進んでしまい、そして大学図書館で働くに至った。当時は京都に通学する電車の車窓を撮影することも容易かったのに、就職活動を経て広島が安住の地となることが決まって以降、京都はずっと遥か彼方になってしまった。かつては住民だった自分はいつしか「余所者」になってしまったが、かといって広島に移り住んで未だ数か月しか経過していない自分は、広島の地から見ればやはり「余所者」だ。これから私は徐々に新たな都市の構成員として馴染むことになるのだろうが、それでもなお、しばしの間は足場をぐらつかせながら生活を送ることになる。
それまであった都市の生活を外部から侵入し、根本から作り替えたうえで去っていくような存在。観光客のようなそれらをジル・ドゥルーズはかつて「戦争機械」と称した。就職活動で様々な組織に履歴書を出し、面接に挑んで帰っていくその日々はまるで観光客のようであり、そして戦争機械のようであったと私は考えていた。そんな様々な都市、組織への巡礼の果てにたどり着いた都市のなかで、私はこれからむしろ外部によって変えられる存在になるのかもしれない。私は意味もなく誰かによって改造手術をなされていくことになる。だがそれこそ、人間の複雑性の本質なのかもしれない。余所者=観光客=戦争機械。彼らの到来を静かに待つことが、今後の私にとって重要なのだろうか。
しかしながら、いやだからこそ、自らが変化する可能性を今一度、私は検討する必要がある。かつて作られた私の痕跡を再構築するこの作業が、過去の私に対し現在の私自身を戦争機械にする試みだ。そうやって、過去の私と今の私は交錯し、新たな価値観がきっと作り出される。幼かった私の言葉は今から見れば、いささか理解に苦しむ面もある。だからこそ、それらは今の私を内部から作り変えうる、戦争機械にになる。
進化を続け、そして新しいものの到来を待ち続けよう。そうすることで、より先鋭された言葉を作ることを私はできるかもしれない。
ukiyojingu+結月ゆかり『city』(新編集版)
都市は私にとって、魅惑と畏敬の対象であった。清々しい碁盤の目のような街並み、そしてその中でシステマチックに動く人々の姿は、私に数学的な美しさを感じさせる。効率的にかつ論理的に設計された無駄のない都市は、言うまでもなくディストピアであるが、とはいえユートピアでもあることは言うまでもないだろう。数学的な完全さ、圧倒されるこの感覚は、カントが「崇高」といったそれと同じだろうか。反復された都市の光景を見ながら、そのようなことを考えている。
システマチックな近代都市のあり方は、ハワードが19世紀末に「田園都市」を提唱し、そしてコルジュビエ20世紀冒頭に「輝く都市」と提唱して以降が印象的だ。無数ものビルが中心となり、まるで住民がコントロールされながら生活する光景は、人類の進化のようなものを強く感じとても好印象に思える。しかしながら、そんな都市の姿が実現されたことなど、過去に一度もなかっただろう。秩序の中に抑え込まれた人々が内包する無秩序さ、すなわち人間性が爆発したからだ。そんな都市の動態的な美しさ、そしてその中での自分の位置づけを再定義することが、私の原動力となった。
コントロールに離反する人間性。そんなことが望まれたのはもう半世紀ほど前にことになりつつあるが、とはいえ、現代社会は紛れもなくコントロールされている。私たちはプロトコルによって強烈に制御されたデジタル空間を避けて生きてゆけない。Twitterの無秩序的なコミュニケーションだって、いまやイーロン・マスクの掌の上で展開されているに過ぎない。私たちがどれほど電子回路に依存しているかは、ここ3か月の間で発生したニコニコ動画のハッキングがそれを示していただろう。デジタル空間からシャット・アウトされた私たちのどれほどが、別のデジタル空間を志向したことか。いずれにせよ、こうした事情により私は今一度「都市」を望む。
電子回路から人間性を取り戻すこと。誰しもが「エレクトロニクスの首輪」が課せられ、数字に還元されてゆく時代で、数字に還元されない固有性を見つけること。その探求は、都市の中での自分自身の位置づけを再確認し、再構築する試みである。十年後、私はこの作品を振り返り、その不完全さに眩暈を感じるかもしれない。しかし、その不完全さこそが、都市の魅力ではなかろうか。誰かを見つけること、そして「 」を付けて客体化し、改めて見つめること。その反復、巡礼こそが、いま求められている。
ukiyojingu+結月ゆかり『upstair』(新編集版)
田園都市構想以降に設計される計画的な都市の姿は、中心部を基本とした徹底的なコントロールを前提にして設計されてきた。パリの新市街設計にコルジュビエが提案した都市設計がそうであったように、それらは都市の不確定な姿を棄却すると同時に、まさにシステマチックな形で動き続けるような都市の近代性を前面的に肯定する潜勢力で満ち溢れていたように見える。それからおよそ100年が経過し、かつてシステマチックなものとして構成された私たちの都市に対する夢は人間性の凋落として批判され、一つの大きなシステムによる社会のコントロールとは真逆のベクトルを向く運動が「多様性」という名の元で展開されてきた。モダニズム思想から遠く離れ、その代わりに台頭するポストモダニズムが私たちに与えた影響は計り知れないだろう。
それでは、中心部から同心円状に展開されるような都市設計が非人間的と批判された時代を経て、私たちはある種の人間性に溢れた無秩序の時代を謳歌できているのだろうか。1990年代に世界的インフラストラクチャーになったインターネットの台頭は、私たちを真の意味で自由で多様性あふれる世界に導いてはくれなかった。誰しもがエレクトロニクスの首輪を課せられ、首から垂れ下がるIDタグによってコントロールされる様相は、かつてモダニズムが提唱したような理想的な都市の姿を非視覚的な形で実現している。インターネットプロトコルが定めたルールにのっとってしか言語を送受信できない今日の私たちは、その埒外にいる「エンコードできない言葉」を無視している。そうやって、どこかでそぎ落とされた言葉の亡霊たちは、エンコードまま世界の外側で亡霊となって彷徨う。その疎外は、突然にも実行されている。
こうした時代にて、言葉の亡霊を私たちが発見することはいかにして可能だろうか。エンコードされないそれらに目を向けることに失敗する私たちは、いつしか亡霊そのものの存在を見失い、コード化される言葉の全てが伝わるべき内容かと錯覚してしまう。140字すら読めることが出来なくなるこの時代、ここに記した文章がどこまで読まれるかさえ、定かではない。ネットワーク上で送信される言葉の背後を這いずり回る亡霊を見ずして、私たちは一体何をどのようにして、誰に送信できるだろうか。
デジタル空間がこれほどまでに深化した現代社会において、強力な中心を持つ都市から私たちは逃げることはできない。それでもなお、降りることが許されないとしても、亡霊を探す作業の価値は否定されることはない。言葉の亡霊を見ること。誰かの言葉に「 」をつけること。その作業が今、問われている。
ukiyojingu+結月ゆかり『current』(新編集版)
現代の都市において合成音声がどのように人々の生活を取り囲んでいるかは、都市の複雑な構造と深く結びついている。都市はまるで積み木のように重なり合い、秩序と無秩序が絶えず交錯している。その風景を言葉と論理に変換することは、まるで意味の追求と無意味の連続の間で揺れ動く行為だ。都市は無数の思惑によって運営されるシステマチックな存在であると同時に、その中で個人が自分の位置を見出そうとすることは避けられない。そんな矛盾と複雑を、私は自らの声の代替品として生成されるこの合成音声に委ねている。
都市での生活は時に無意味に反復されるが、私たちはときに、その無意味なルーティンの中にさえ意味を見出そうとする。意識的に無秩序を追い求めることは、その純粋さを失わせる危険性を孕んでいるだろう。だがしかし、都市の風景や音声を幾何学的に再構成することで、無意味に思える生活に新たな意味を与えることができる。都市の複雑さを深く考察し、その中で新たな価値を想像し創造することは、現代においてますます重要な問題だ。
都市の密度は、そんな力場上で形成される。都市はシステマチックに駆動される存在であり、その中で人々の動きは計画的だ。過去に私が都市に対して抱いていた憧れと、現代の都市を再構成する試みは、いずれも都市の複雑さに挑むアプローチである。都市を再構成することで、かつて得られなかった深淵を除くことがいま必要とされているのであれば、この合成音声は何を表現しうるのか。
情報科学の進展により、都市のデータがデジタル的に管理される時代が到来した。これにより、都市の姿はますますシステマチックになり、効率性が追求されることとなった。しかし、デジタルデトックスの必要性もまた高まっている。現実の都市とデジタル空間が交錯する中で、どのようにして個人の存在感を保つかが問われている。デジタル空間に依存しない都市のあり方を再考すること。0と1で生み出されたこの声がそれを望んでいることの複雑さを、いかに受け止めることができるか。
都市は、絶えず変化し続ける存在である。合理性は個人の自由や創造性を制限する。だからこそ、都市の新陳代謝を促しつつ、その中での人間の存在を再確認することが必要だ。都市を深く思考することで、デジタル時代における新たな可能性を見出すことができるのなら、都市の構造とそれに伴う人間の動きを理解し、その中で新たな価値を生成することが、この合成音声の持つ意味である。システマチックに駆動する音楽の、その背景にある血肉へ。都市の光景に反射する、生活を継続する我々へ。
ukiyojingu+結月ゆかり『media』(新編集版)
深夜の街は、スクリーンの光に包まれている。私たちはその光に引き寄せられ、異世界へと誘われる。過去を振り返り、未来を思い描きながら、私たちはこの都市の一部となる。スクリーンに映し出される断片は、誰かの記憶や思い出の欠片だ。私はその欠片を拾い集め、都市の輪郭をなぞる。
広島郊外の学園都市に引っ越してから、SNSのスピードがやけに速く感じるようになった。BeRealやDiscord、Xのスペース機能など、即時性を要求するアプリケーションが私たちの生活に浸透している。デジタル空間上での「強制同期」は、私たちの意識を多孔化し、都市空間に無数の孔を穿つ。
デジタルスクリーンに初音ミクが偏在する現象は、都市の芸術的変容を象徴している。JR渋谷駅のスクランブル交差点に設置された大型ビジョンQs EYEや、山手線の車内に映像広告「トレインチャンネル」が導入されたことが、その始まりだ。都市の至る所にスクリーンが設置され、私たちの視覚を支配している。
2007年に生まれたボーカロイド文化は、リアルタイムでのコミュニケーションを錯覚させる疑似同期システムの影響を受けてきた。初音ミクをはじめとするボーカロイドキャラクターは、都市の地下で開催されるDJイベントやスマートフォンアプリ「プロジェクトセカイ」で顕現する。デジタル空間と現実空間の境界が消失しつつある現代、私たちはどのような思考回路を構築すべきか。
都市の芸術化は、私たちの感覚を麻痺させる。マーシャル・マクルーハンが指摘したように、メディアは感覚の切除であり、自己認識を禁じる。デジタルスクリーンに溢れる都市は、私たちを美的存在へと変貌させる。デジタル空間と都市の境界が消失する時代に、私たちはどのようにして自己を保つべきか。
スクリーンがランダムに抽出する誰かの痕跡、その集積としてのこの都市の中で零れ落ちてゆく何か。この都市の最下層に落ちている誰かの断片こそ、かつて誰かが「 」で囲われた主体であった痕跡ではないだろうか。
ukiyojingu+結月ゆかり『document』(新編集版)
某日、平和島を南北に貫く高速道路を横断する高速道路沿いから、広島から引き連れた一眼レフを携え、夕方から夜遅くまで平和島の海岸線にいた。
度重なる増設と改造を積み重ねたここは、もともと海だった。図書館で見た海沿いの品川駅に汽車が到着する光景はとうの昔だが、そんな海沿いの景色がかつてあったことを思い返すと、度重なる増設と改造による人工島の光景は、人間——あるいはその複合体としての都市が、幾重にも折り重なった光景として立ち現れている。それはまるで、集合的な人格としての都市が自我を徐々に形成することにより、かつて剝き出しのままであった無意識たる「海」に覆いを被せる如く。その過程で抑圧された「海」の痕跡を探し出すことで、私は抑圧されたものではない、本当の姿としての誰かを求めている。それはすなわち、これまでの見方で誰か/何かを見る方法を取るのではなく、新しい方法で誰か/何かを探すことである。あるいは、誰かを新たな「 」に入れ込むための手法を探すこと、と形容してもよいかもしれない。自我による抑圧を受けるものと受けないものの境界線に人工島の海辺があるとするなら、この沿岸都市沿いには、圧殺された過去が水死体の如く浮かんでいるはずだ。その声の痕跡へ目を向けることは、意義があるように思う。
だが、言葉は常に表象されたものであるからこそ、それは常に抑圧を受けてきたものとしてしか解釈されえず、ここから先に進むためにはある種の狂気さを私は受け入れざるを得ない。都市の景観は言葉にされえず、全ての言葉は美しく/あるいは醜く表象された瞬間、たちまち死に至るのだから。そうやって失敗を積み重ねた末に出来上がる瓦礫の山がやがて地層となり、この人工島の基底と化しているのであれば、その失敗を積み重ね続ける私たちは、果たしてそれでいいのだろうか。コミュニケーションの地滑りにより他者が殺されるこの時代において言葉が無力であることは言うまでもないが、だからこそ、この言葉は別の仕方で表象されていく可能性を求めなければならないのではないか。
この音楽は2つの初期作と『言語交錯』の間に作られ、そしてこの映像は一眼カメラを手に入れた2022年の冬から撮影したものがほぼ全てを占めている。もう5年は昔のものとなってしまった私の記憶を、私は新しいピアノと新しい映像を使い、新しい言葉で表象する。この行為は、かつての海沿いの景色を忘れた平和島にどこか被るかもしれない。それでもなお、新たな差異が込められたこの新編集版という反復行為を、私は決して無意味とは思わない。言葉が無力だとしても、だからこそ、言葉を発信し続けたく思うのだ。
批評
合成音声音楽の世界 2023(2024年4月)
寄稿:「シンタックス・エラー―原口沙輔“ 人マニア” における、美学的体制のアイロニカルな表明」
ボーカロイド文化の現在地 Extra(2024年5月)
寄稿:「無気味なシンパシー——グリーンバーグより「ポケミク」へ」
ボーカロイド文化の現在地2(2024年11月)
寄稿:「強制同期に抗って——芸術的都市に対するボカロ・パフォーマンスの潜勢力」
都市巡礼シリーズ(note)
上記楽曲のために執筆された楽曲群。
その他(note)
今後
詳細未定だが、都市巡礼の残り4曲を公開したうえで、アルバム『都市巡礼』を公開予定である。トレーラームービーに流れている映像が「debris」であるように、実は完成している楽曲も少なくない。
また、本年末に参加した創作集団「outré」上にて、ちょっとしたプロジェクトを展開中である。こちらの今後にもぜひ期待されたい。
また、実は12月からバンドプロジェクトを再起動している。時期未定だが、来年のどこかの機会に、大阪でライブをできればと考えている。様々な方法を検討しているところであり、早々に方針を固めたい。
最後に身の上話だが、来年度の間に筑波大学か九州大学の大学院に進学しようと考えている。図書館情報学か、あるいは芸術学系か。人生をやり直せるなら芸術学に行くだろうが不可逆なものなので、図書館情報学になるだろうかと考えつつ、今年を終えよう。
では、よいお年を。