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到達できない〈ヨーゼフ・ボイス〉に思いをはせて
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まだ16時過ぎにもかかわらず差し込んでくる夕陽によって、冬が本格的に到来してしまったことを強く感じてしまう。斜陽が、ほとんど地下に埋まった国立国際美術館のガラスを美しく反射していた。部屋を京都市内に設けて以降、大阪市内に顔を出すこともめっきり少なくなってしまったのだが、こうして高層ビル街が陽の光を無数に反射する景色を見ていると、ビルがほとんどない京都では見れない光景にうらやましさを感じてしまう。
「ボイス+パレルモ」展 ポスター
(https://www.nmao.go.jp/events/event/beuys_palermo/より)
私は今日、国立国際美術館で開催されている「ボイス+パレルモ」展を見るために中之島にいた。ヨーゼフ・ボイスは戦後の現代アートを作り上げた巨人であり、そんな彼と、彼の弟子であったブリンキー・パレルモとの相互関係にフォーカスをあてた展示として、本展覧会は豊田市美術館・埼玉県立近代美術館・そして国立国際美術館にて開催されている。脚を運んだ国立国際美術館は、巡回される三会場のうち最後の会場にあたり、先月から来年1月ごろまでの開催である。
最初期は戦後におけるフェルトや脂肪を使用した作品群を発表していったボイスは、やはり「社会彫刻」と称される一連の社会運動的なアートの実践が最も有名だ。予め決定された企図を持たずにその場での実践を重視する芸術は1950年代よりアラン・カプローの「ハプニング」を一つの起点に、今日ではソーシャリー・エンゲイジドアートという名前の元で現代アートをめぐる大きな潮流の一つになっている(広義な)歴史が形成されている。その中に、ボイスの名前は深く刻まれているだろう。
ヨーゼフ・ボイス《カッセルの7000本の樫の木》(1982-1987)
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突発的に出来事を発生させるカプローの「ハプニング」から、他者の認識を再構築するボイスの「アクション」へ。ドイツで5年ごとに開催される美術祭「ドクメンタ7」に際し彼が行ったアクション《カッセルの7,000本の樫の木》(1982)は、そんな彼がどのような思想を持っていたかを表象している。ドクメンタの開催地たるドイツ、カッセル市内に合計7,000本の樫を市民と埋めるというこの壮大なプロジェクトは実に5年もの年月を費やして成し遂げられ、その背景には彼なりの環境問題に対する問題提起が込められている[1]。「緑の党」という政党の結成にまで手を出した彼の活動は、周囲を巻き込みながら数多くの方面へ展開していく。自身の問題意識を明確化し、それを社会の中で積極的に芸術として発表していくこと。そうした彼の実践は、第二次世界大戦を経て瀕死の重傷となりながらも、現地の遊牧民によって助けられたという彼の人間関係に関する過去の出来事と大きく関係しているだろう。人間内部のことを考えるのではなく、より外部の人間関係の問題へ。彼の活動はそのように特徴づけることはできるだろう。
しかし、そうした作品群が展示される中で、私は一つのことが気になっていた。私の疑問——あるいは愚問かもしれないけれど——は本展覧会においてもキャプションとして指摘されていたことだが、ボイスがどのようなイデオロギーのもとに、どのような思想のもとに活動をなしていたのかについての明確な理論体系が彼の活動の中では出力されなかったということに関係している。おおよそ1960年代を皮切りに数多くの社会運動的な芸術実践を行ってきたボイスであるが、その数多くの実践とは裏腹に、彼は自身の活動の背景にあたる理論的な面についてを理論化することはなかった。キャプションには、彼が積極的にカメラに自身を映した事実とは裏腹に、本をほとんど書かなかったことが強調される。展示に際して掲示された以下の文面は、彼がどうして文章を書かなかったのかについての示唆的なコメントだ。
そもそもボイスはよく話すが、あまり書かない。芸術概念の拡張をもくろみ、来るべき新しい制作のあり方を模索したにもかかわらず、自らの造形理論を体系化して伝えようとする意志には乏しかった。繰り返されるよく似た主張は、途中に散りばめられた断片的な比喩や体験談ゆえにかえって難しく、文化的背景を異にする中秋にとってはなおのこと、その言葉が捉えがたいはずである。だがボイスが語るのは、必ずしも理解を促すため、補完するためではなかった。むしろ挑発すること、聴衆各人に考えさせることこそが、その非体系的な語りに託された機能であったと言えるだろう[2]。
あえて明確な言語にしないことによる、意味の宙づり。聴衆はその曖昧さに対し、アクションへの参加によって――カッセルに樫の木を埋めるように——意味を理解しようとする。彼の生涯が文筆に注がれることが少ない理由をそこに見出すことができるのであれば、ここに一つ疑問が生じてくる。それは率直に「私はボイスをどのように理解できるのだろうか?」という問いだった。
「ボイスをどのように理解できるのか」、このような問いを美術館の展示を見た感想で抱くことに対し、私は違和感を抱かざるを得ない。なぜなら、美術館に展示されている作品はそれ自体、価値が明確化されていることが多いからである。美術館に所蔵される美術作品の多くは、その作品のそれぞれに明確な美術史的価値がつけられており、作品はその価値によって美術館に収蔵される権利を得ている。ボイスというアーティストも生前こそ批判されることも多かったものの、今では世界的に支持されているアーティストとして、現代美術史にまぎれもなく名前を刻んでいる。にもかかわらず、どうしてこのようなことを思うのか。その理由は明確に、私がボイスの社会彫刻を直接目にしていないからだ。そもそものこと、私はボイスの死去した1986年よりも後に生まれた世代だ。展示では確かに彼の作った作品が飾られ、彼の起こした数多くのアクションが体系化され、映像作品としてブラウン管テレビで上映されている。しかし、先ほどのキャプションにおいては彼の最も中心はいまそこで展開されている活動そのものであり、それは文章になることもなければ、映像に残されているものでもないものだ。アート・ドキュメンテーションという言葉は美学者ボリス・グロイスによるものであるが、一度為されたパフォーマンスのアーカイブはもはやその作品そのものではなく、別個の作品として位置づけられるべきだ。
「ボイス+パレルモ」展は間違いなく、ヨーゼフ・ボイスに関わる展示を行っている展示会だ。しかしながら、その本質が体系化されないまま、その場にいた観衆に開かれた——その場にいた観衆「のみ」に提供された——のなら、私はそれを永遠に知ることができない。どれだけボイスの作品を見ることができても、その背景にある核心の〈ヨーゼフ・ボイス〉に私は到達することができないのだろうか。しかしながら、それこそがボイスの本質——到達不可能な〈ヨーゼフ・ボイス〉であるべき問題だろう。展覧会カタログにて、本展示の企画者でもある国立国際美術館学芸員の福元崇志による論考はその問題に積極的に取り組むものでもある。
作者自身を媒介とするアクションは、その芸術において中心的な位置を占めるだろう。たえず動き、さまざまな関係を構築しては、自らを塗り替える……そんな既存の枠組みの全てに揺さぶりをかけんとするボイスの実践は、けっして静観され、味わわれるべきものではない[3]。
本展覧会において表象される〈ボイス〉とは決して明確に表象可能な存在ではなく、あいまいな輪郭を取りつつ鑑賞者へと送られている。展示される作品そのものはアクションの断片であり、それ自体は間違いなく「静観」されるものではあるのだが、しかしながら彼の作品をただ「静観」するだけでは、私は〈ボイス〉に到達することは決してできないのだ。ボイスが私に伝える、永遠に到達できない〈ヨーゼフ・ボイス〉のあり方。それは福元が論考内で「死はその芸術を完結させず、むしろ変質させる」と述べるように、彼の死後もなお続く彼からの問題提起であると言えるだろう。その問題は、ボイスの死後生まれた私のような人間にはなおも鋭く突き刺さっている。
私はどのようにして、〈ボイス〉を知ることができるのだろう。そうした思いを抱えながら、私は展示を見終わった後の国立国際美術館に差し掛かる夕陽を、ただ呆然と見ていたのだった。
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[1]ヨーゼフ・ボイスについては以下も参照。若江漢字・酒井忠康『ヨーゼフ・ボイスの足型』みすず書房、2013年.
[2]鈴木俊晴・大浦周・平野到・福本崇志・伊藤雅俊編『ボイス+パレルモ』マイブックサービス、2021年、151-152頁.
[3]福本崇志「ボイス以後のボイス」前掲書、20頁.