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熊で殴る【創作大賞2024エッセイ部門応募作】

私はこの世の情報を全て頭に入れた、と確信していた時期があった。まだ10歳にもならない頃から、三年間ぐらいだろうか。

本が好きで、読み漁った結果、この結論に至った。私はこの世の情報を全て頭に入れた。だって同い年の誰よりも物知りだし、クイズが好きだし、大人も私を指して賢いと言う。教養があるんだ。勉強もできる。ほらみろ、受験に成功だ。ワンランク上の学校だ。しかしなお勉学に余裕がある。なぜか? 私はこの世の情報を全て頭に入れたからだ。

余裕の生まれた私はゲームセンター通いを覚え、そこでクイズゲームと出会った。そして叩きのめされた。私の頭の中の情報は、この世にある情報の、1%にも満たない。特に芸能クイズとスポーツクイズはからっきしだった。

そういうわけで、脳みそ自慢は学問の方面に限られることになった。続く大学時代では、学問の方面までも、潰えてしまった。勉強は、日々の家庭学習で磨かれる宝石であり、原石勝負など高が知れている。まぁ苦渋をなめさせられた。

私の寄る辺はもはや、「私には教養があるんだ。勉強もできる。」の前者のみになってしまった。同じく大学時代に、私はウィキペディアを編集し始めたのも、「私には教養があるんだ。」という寄る辺のほかに、何もなくなったからだ。

そして、教養の意味を辞書で引いたのは、おとといのことである。結論を先に書くと、知識と教養は、イコールで結べない。

まず第一に、教え育てること。そして第二に、教養されることで得られる創造的活力や理解力のこと。様々な知識、という意味は、教養という語の一部に過ぎない。

では、なぜ私がおととい、「教養」を辞書で引いたかというと、このポストを見たからである。

シャツに、じゅげむじゅげむ五秒でブチギレ、と書いてあり、見た人みんな元ネタがわかるので笑った。笑えるのは「国民レベルの教養の基準が高い」現れである(かぎカッコは原文より)。というポストである。じゅげむを知っていることは教養の基準が高いこと。

私はこのポストを読んで、何か変だ、と感じた。おかしい、何か歯車が狂っている、とすら感じた。だから「教養」を辞書で引いたのである。「このポストの言っている教養」と、「辞書の教養」は何が食い違っているのだろう。自分なりに結論は出た、と思う。

インターネットの世界では、インターネットでお手軽に入手できる情報を指して「教養」と呼ぶ。目的は、手軽に知識人ぶって他人を攻撃するためである。

辞書によると、教養は理解力である。「じゅげむじゅげむ五秒でブチギレ」と書いてあって、ああじゅげむだ、と理解できて笑えた。こんなことは理解力が低くてもできる。じゅげむと書いてあるのだから。よって、教養が高いというのはおかしい。もう一つ、じゅげむはもっとも有名な落語の演目と言っても過言ではない。最も有名なものを知っているから教養が高い、というのは少しおかしい。

ではなぜこのポストがじゅげむを「教養」と呼んだのだろうか。おそらく、検索窓に落語と入れれば真っ先に出てくるぐらい手軽に聞ける落語であり、有名かつインパクトがあるから、ではないだろうか。

手軽で、有名で、なおかつインパクトがあるコンテンツが、「インターネットでの教養」として扱われるのではないだろうか。根拠としては、ウィキペディア三大文学という区分が挙げられる。

地方病と三毛別羆事件と八甲田雪中行軍遭難事件の記事はどれも有名で、インパクトがある。またウィキペディアにあるので手軽に読める。

XでもYoutubeでも、三面をコンクリートで固められた川の写真が表示されるやいなや、まるで早押しクイズのように「みんな! これはミヤイリガイを流すためだよ!」という注意喚起のコメントやリプライが次々と書き込まれる。熊が出れば三毛別だ。

そして、インターネットにおいてウィキペディア三大文学は、知っていると知識人としてふるまうことができる。「熊は恐ろしいよ!」「川はコンクリで固めるべきだよ!」「矛盾脱衣だよ!」など、記事を読んでいれば他人に圧をかけることができる。

繰り返しになるが、ウィキペディア三大文学は「教養」として扱われている。もちろんこの場合、「インターネットでの教養」だ。私は「辞書の教養」は素晴らしいと感じる。そして「インターネットでの教養」は、本当に、本当に恐ろしい堕落の元だと考える。

私はこの世の情報を全て頭に入れた、と確信していた時期があった。では当時、頭に入っていた情報が何かと考えてみる。するとそれらは、「インターネットでの教養」の三つの要素にあてはまるのではないか、と思うのである。

当時の私の情報源は、図書館の雑学本と、テレビのクイズ番組だった。どちらも手軽で、有名で、なおかつインパクトがある。「海老のしっぽはゴキブリの羽と同じキチン質」。「布団を干したにおいはダニの死骸のにおい」。それらを同級生に披露するのが本当に楽しかった。そうなんだ! しらなかった! と言われるのが掛け値なしに嬉しかった。

図書館の雑学本と、テレビのクイズ番組で得た私の知識は、大学に入ると、日々の家庭学習によって磨かれた宝石に敗北する。日々の家庭学習によって磨かれた宝石とは何か。すなわち、創造的活力や理解力だ。「辞書の教養」だ。

「インターネットでの教養」は「辞書の教養」に敵わない。「インターネットでの教養」には新たな何かを創造する力もなく、異なる立場を理解する力もない。

ひたすら、よく知ってるね! と そうなんだ! と言われたいだけである。お前らはこんなことも知らない! そうだ俺は賢い! と言いたいだけである。 

「海老のしっぽはゴキブリと同じキチン質」なのは事実である。そして、相手の気分を害する以外に効果はない。自分がマウントをとる代償に、フードロスを増やしている。あと、「布団を干したにおいはダニの死骸のにおい」ではない。

三毛別羆事件の記事を読み込んだ人々が何人いたとて、彼らが熊害対策を立案できると思えない。書いてないからだ。他人に知識マウントをとるために、とられないために、三毛別羆事件の記事を読んでいる。

私の、「教養があるんだ。」という最後の寄る辺は、とあるクイズ大会に出場して打ち砕かれた。創造的活力と理解力、すなわち「辞書の教養」は日々の努力でしか磨けない。積み重ねた人とのクイズ大戦で、私はそれを思い知らされた。人生で三回目だ。勉強を続ける以外にない。

今日もSNSで教養が尊重されているので、他人を知識で簡単に殴れる環境が整っている。私はそれを、掛け値なしにうらやましいと思ってしまう。かつて私もそうだったからだ。

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