ノスタルジックに空を、とぶ。
みなさま、お久しぶりです。
魅力抽出マイスター ゆきのです。
前回の記事からだいぶ経っていますが、順調にデトックスは進み、
個人的には、自分の内側も取り巻く環境も、静かに大きく変わってきたと感じています。
前回の記事は、こちら。
そんな中、シン・エヴァンゲリオン劇場版:||をAmazonプレミアムで視聴したので、その感想というか、そこから感じたものをつらつらと、綴っていこうと思います。
とりとめなく、まとまりなく、着地点も決めてないので読みにくさは、MAX
です。
ご了承ください〜。
エヴァとの出逢い
そして、
シン・エヴァンゲリオン劇場版:||
エヴァンゲリオンといえば、1995年〜1996年にTV版の新世紀エヴァンゲリオンが話題になり、その後、劇場版が公開。
その作風やテーマの重さ、今までに例を見なかった手法が、話題になり、若者だけではなく、その時の社会にも大きな影響を及ぼしたオバケアニメ作品です。
わたしが、言うことでもないですが、新世紀エヴァンゲリオンは、その時代とそのときを生きていた若者たちの心の闇に上手くシンクロした稀有な作品といえるでしょう。
エヴァが放送された当時のわたしは、中学生でした。
放送当時、わたしが住んでいた沖縄では、残念ながら、放送されていませんでした。
放送されていても、その頃のわたしは、ナウシカの漫画版とブラックジャックに夢中だったので、そのタイミングでエヴァと出逢っていても、観なかっただろうなと思います。
エヴァをちゃんと観たのは、高校を休学していた17歳のとき。
当時、レンタルビデオ店でVHSを借りてきては、ひたすら観続けていました。ここでは、わたしの当時のアニメ遍歴(わたしのコアをつくったものたち)については、触れませんが、エヴァを始め、思春期に出逢ったserial experiments lain、少女革命ウテナなどが、今のわたしの根底と繋がっていると感じています。
まさにエヴァ世代ど真ん中だったわたしにとって、やはりエヴァへの思い入れはとても強く、シン劇場版シリーズの上映が始まった当初は、受け入れることができす、観ることすらしませんでした。
特にアスカフリークだったわたしには、惣流じゃない式波アスカへの拒否反応が強く、影を感じない無邪気なアスカのイラストを見るたびに、違和感を感じていたのです。
そして、販促のためとしか思えない新コスチュームや作品ごとに巨大化するレイちゃんの胸。
おいおい、14歳でこんなに華奢でこの胸はないだろ〜よ。金儲けのためにここまでするか?と。
今思えば、そのキャラクター達が、本当に生きているかのように大切に感じていたから、そんな受け取りかたをしたんだと思います。
そこまで拒絶し、絶対に観ないと決めていたシン・エヴァンゲリオン。
それなのに観る日は、あっさりときてしまいます。
プロフィール記事にも書いているダメンズの一人がDVDを借りてきて、一緒に観ることになったのです。
そこでわたしは、序・破・Qとシン・エヴァシリーズを観ることになります。
シンジの、
守りたい世界
序・破・Qをはじめて観てから6年以上は経っているので、記憶がほぼないですが、観たときは、涙が止まりませんでした。
宇多田ヒカルさんの曲も、歌に合わせて、スタッフロールが点滅する演出も、どちらにもお互いへの敬意や愛を感じ、ただただ、涙が流れました。
高校生の頃のわたしには、わからなかったシンジの想いが、痛烈に胸に押し寄せ、心が痛くて苦しくなったのです。
「シンちゃんは、この世界を守りたかったんだ」
きっと、シンジは、綾波レイを守りたかった。
だから、今度こそレイちゃんを守るため、世界をやり直したのに(例えそれが、ゲンドウとゼーレのシナリオだったとしても)、レイちゃんを守れなかった。
そう思うと、本当に心が苦しくなりました。
認められない
のは、
自分だけ。
そして、気がついたことは、エヴァ世代のわたしは、エヴァに対してそして、そこに登場するキャラクター達に対する見方も心情も、変化していない。それなのに、変化するはずもない、アニメのキャラクター達が、時代とともに変化していたということでした。
TVシリーズでの過酷すぎる戦いや友人の死、サードインパクト、助けたかった人を助けられなかった経験、ニアサードインパクト・・様々な状況の中に巻き込まれながら、その運命の渦から抜け出そうともがくキャラクターたち。
そんな状況で、成長・変化しない生き物などこの世にいないのだと実感しました。
シン・エヴァシリーズ自体が、一度世界をリセットした後の新たなシナリオだと考えると、キャラクターの性格やその背景に相違が生じてもおかしくない。
アスカの持っていたぬいぐるみが、サルのぬいぐるみから女の子の人形へ変化していても違和感がないし、アスカがTVシリーズよりもずっと幼く感じても、加持への想いがなくなっていても、何もおかしくない、ということに気がついたのです。
そして、無邪気に見えるからこそ、心に抱える闇もまた、深くなっていたのだとシン・エヴァを観てはじめて気づくのです。
エヴァへの想いが強すぎるあまり、多少の変化も受け入れられなくなっていた自分に気がつき、苦笑しました。
リアル社会に生きるわたしよりもずっと、リアルにエヴァの中のキャラクター達は、時代の変化に合わせて変化・成長していたのです。
ダサくて、
人間くさい
シン・エヴァンゲリオン劇場版:||を 観終わった一番最初の感想は、意外にも「ダサい」「古い」「おっさん達がつくったのも」でした。
え?こんなに褒めてるっぽいのに??
ですよね。
でも、本当にダサいな。と思ったんです。
TVシリーズが、放送されていた当時、エヴァは映像的にもシナリオ的にもある意味スタイリッシュで最先端でした。
社会現象になり、様々な映像作品やメディアにその手法が、取り入れられるほど、すごくオシャレな作品でした。
こう表現するとわたしのようなオタクには、反感を呼びそうですが、それでも、オシャレだったと表現できる作品でした。
そして、制作に関わっている人たちが、若くてエネルギーに溢れていた。
当たり前ですが、当時は庵野監督をはじめ、関わっているスタッフは皆、今よりもずっと若く、おそらく一番、脂ののった最高の時期だったと思います。
その若さや感覚が、作品からは溢れていたし、中高年には理解できない感覚的な闇の部分が、魅力でした。
それぞれの
想い。
ダサいと感じた理由には、ゲンドウ・ミサト・アスカ・加持・・etc。
それぞれが、それぞれの想いに縛られ、そのエゴを通すためにみんなが動いていた、というところも大きく起因しています。
正義なんてどこにもなくて、身勝手に自分勝手な想いを貫こうとしていた。
そこが、魅力でもあり、泥くさくてダサい。
それぞれの想いが、交錯し、強すぎる想いが、まわりを、世界を 破壊する。
そんな中、ただ一人だけ、自分の想いではなく、他人の願いを優先していたのが、シンジだったように思います。
それも、自己犠牲という形ではなく、どこかスッキリとした達観したような眼差しから、シンジ自らが、望んでそうしていたように感じます。
おっさん
の
自分語り。
ちょっと話しは戻って・・ダサさの極み、キャラクターたちの自分語りについて。
公開当初は、わかりませんが(その時の時代背景を全然、覚えていない;)、特に自分の心の内側を語るシーンが、今の時代にそぐわない、時代遅れだとわたしは、感じました。(ゲンドウが自分の心の内を語り、ユイを探すあのシーン)
ゲンドウ以外にも、自分の心の内を語りだすシーンが、多く登場したのが、エヴァ:||。
ちょっと、彼氏彼女の事情のTVシリーズを彷彿とさせるシーン。
ダサくてノスタルジックで・・
でも、それが、とても人間くさくて時代遅れで、なんだか嬉しくて。
一人だけ成長できず、ユイを探し求めるゲンドウを見ながら、ああ、おじさんたち(制作スタッフ)頑張ってるななんて思ったり。
演出もダサいなと思うところもあり、そこは本気でダサかったですが、エヴァからは想像もできなかった泥くさくて人間くさい話に、驚きと不思議な安心感を覚えました。
エヴァから
漂う、
ノスタルジックな香り
TVシリーズが開始され、社会現象になった当時は、エヴァは最先端の作品でした。ノスタルジーも泥臭さも感じない。
性のにおいがそこら中に漂っているけれど、どこか無機質で、鉄のにおいのする作品でした。
それが、時を経て、時代背景も何もかも異なる作品として発表され、映像も美しいのに古臭くて郷愁溢れる作品となって終焉を迎えました。
個人的には、とても意外だったけど、この記事を書いている今、エヴァってノスタルジックな作品だよね。となぜだか思っています。
それも不思議。
やっぱ、これはDVDBOX買うしかないよな〜・・と。
今このタイミングで、買うか買わないか、めちゃめちゃ迷っています。
最後まで、読んでくださった稀有なあなた!
ありがとうございました〜。
あ・わ・せ・て読みたい♪ラッタラッタラ〜♪