詩の手ごたえ ーマーサ・ナカムラ「雨をよぶ灯台」ー
かなり長い間、詩だけは分からんと思っていた。合いそうで合わないピント。それでも諦めがつかず、引越しで大量の本を手放すと手元に残るのは結局詩だった。分からないなりに、詩のもつ静けさが心地よくて好きだ。でも、今ひとつ自信がない。
そんな中途半端なわたしがようやく「不味い!もう一杯!」と叫べたのが、マーサ・ナカムラの「雨をよぶ灯台」だ。
どの作品を読んでも、同期しているような没入感があった。
同時に、文字から伝わるはずの意味は端からズレて崩れだし、こちらの全身にありもしない妙な像を照らしだす。その新たに立ち上がる世界の、夢よりザラつく舌触りが、獰猛な波の兆しが、静寂の違和感がつけた変なシミが、ひたすらに好みだった。
初めての手ごたえだった。
今はなき八重洲ブックセンター横のスターバックスでこの詩集を読んだわたしは、店内で絶叫したい衝動をこらえた。
いい、誰と分かり合えなくても。たしかに私は、この世界に触れた。その確信がすべてだ。
その後も、同著者の「狸の匣」を同じ興奮のなかで読み、その消えない魔法のような世界に改めて震えた。「マーサ・ナカムラ展」や、東京大学での内容盛りだくさんな講演を聴きに行ったりもした。どれも本当に楽しかった。
(ちなみに、描かれる世界を「異界」と称されることが多いが、私には単に異界とも言い切れないまた別の世界だと感じる。)
それにしても、詩とはなんだろう。
詩は、存在する。
詩は、ことばで表現される。
でも詩の世界は、これ以上ことばが立ち入れない場所にある。ことばの突き当たりからさらに感覚の竿を飛ばして表現を試みる、その先の境地だ。
まだ名前のない地平を、詩は共有可能にする。この認知の広がりは奇跡に近い。
そんなことを考えていたら、そのとき目の前で講演していたマーサさんが「共感できたり好きな詩というのは、友人ではなく親友だ。」とおっしゃった。
この手ごたえは、夢ではなかった。
そう勇気づけられた瞬間だった。