土と祈りのヨーロッパ古代史
今年四十八歳を迎えた私が、12年前に訪れた南フランスからはじまった黒いマリアの巡礼と、60歳までの土と祈りの禊の旅のごく私的な記録です。
孔子曰く、人が迷いがなくなる年は40歳だから「不惑」の年という。五十歳で「天命(天から与えられた使命)」をようやく知り、その後10年をかけて人の言動を全て素直に理解出来るようになる年になるから「耳順」という。耳順は60歳、つまり還暦、命が一巡し生まれかわるということらしい。
不惑と天命の間に、なぜか中途半端な四八歳を孔子は桑年 (そうねん)と名付けた。これが謎である。いくら理由を探しても、桑という字は「桒」とも書き、十の字四つと八の字一つとからなるから…という程度の説明しか見つからない。
四十八歳という年齢が人生の節目的になんの意味があるのか孔子は説明してくれていない。でも48というのは浄土宗では阿弥陀仏がその修行時代にたてた「本願(ほんがん)」の数でもあるし、三重県の有名な忍者の修行場の赤目の滝も四十八。AKBは…どうでもよいか。
でも干支で言えばちょうど4周目、還暦前に年女・年男になる年だからもうワンラウンド、生まれ変わるまでもうひとふんばり頑張れよと孔子が思って名付けたと勝手に理解する。
ちなみに私は6月8日に桑の年になった。物欲や承認欲求などひととおりの欲がうすれてきた今、食欲と共にまだ旺盛な欲があるとしたら、自分は何のために生まれてきたのか、という根源的な理由を知りたいという欲求だ。
孔子が知ってか知らずか、私の四十八歳と「桑」は、ゆかりが深いようだ。
まるでドラマの伏線回収のような感じで、過去を振り返ってみてピンと来たことを紡ぐとようやく意味をなすことがある。
桑と塩と月を通じて、古代のヨーロッパが崇めた大地への祈りを辿る
桑原さんという長年の友人がいる。今では私が第二の母と慕うその人はクワンと呼ばれていた。桑原さんはフランス系の誰もが知る某高級ブランドの日本支社に長年つとめておられた頃からご自宅に何度か遊びに行った。16年前、彼女が還暦を迎える時に一緒に祝ったことを覚えている。桑原さんは気さくな人でフランス語が堪能で、そのご主人もフランス哲学や文学の研究をしていたたのでお二人ともパリに若い頃住んでいた。だから夫妻を慕う親しい人たちは親愛をこめてマダム・ムッシュと二人を呼んでいた。ご自宅はいつも賑やかで、子供から大人までたくさんの面白い人々が集っていた。
その後、福島の大震災のちょうど1年前。私と当時二歳と三歳になる娘と息子を連れて、桑原夫妻と2週間近く南フランスを旅することになった。
不思議なことに、今ではどういう経緯でその旅に出ることになったか、私も桑原さんもはっきりと覚えていない。私は当時会社を辞めて時間があったのと、何かのきっかけで話が盛り上がり、マダムとムッシュと懐かしいフランスに久しぶりに行ってみようくらいののりだったのだと思う。ひょんなきっかけから旅にはもう一人桑原マダムのご友人の女性も参加することになった。
団体行動が好きでない私にとって、家族でもない誰かとずっと寝食を共にし異国を旅することなどまずない経験だった。
ましてや孫と祖父ほどの歳の差のある不思議な外国人のグループがバン1台にぎゅうずめで。
これがとんでもない珍道中で、事件と奇跡の連続だった。あまりにもいろんなことがあったので、もはや何を食べたか、どこを歩いたか、ところどころ記憶はあやふやだが、いくつかの鮮やかな記憶が残っている場所の一つにカマルグという湿地帯の塩田と白い馬の有名なエリアがある。
カマルグはフランスでは珍しい中世の昔からの稲作地帯で、ローヌ川の支流に囲まれた15万ヘクタールの広大な湿地帯だ。カマルグの米は日本酒にも使われていて、愛知の有名な酒蔵がここで生産した米で、醸し人九平次 CANARGUEという日本酒を出しているくらいだ。もうひとつ有名なのは塩。今でもカマルグの名産といえば塩というほど、塩田が雄大に広がっている。
まるで異世界同士に生きているはずの全く違う存在がクロスしてしまった違和感を感じたのは、カマルグが古代エジプトの太陽神ラーが祀られていた島だった場所だったというくだりを地元の教会を訪ね知った時だった。
この場所が古代エジプトの神を祀り、歴史の変遷の中でケルト人、ローマ人、キリスト教徒、そしてルーマニアのジプシーを含む一連の文化によって聖地として崇拝され、「海の聖マリア」と呼ばれるサント マリー ド ラ メールというカマルグの漁村に、オッピドゥムプリスカム ラー(ケルト人の城壁都市 ラー)と呼ばれる場所が残る。
伝説ではイエス・キリストが磔刑に処せられた後、イエスの復活が起こったことを最初に発見したマグダラのマリア(Marie Magdalene)、ヨハネの母マリア・サロメ(Marie Salome)、聖母マリアの妹マリア・ヤコベ(Marie Jacobe)の3人のマリアが、エルサレムを追われて、従者のサラ(Sara)、マルタ、ラザロとともに、エジプトのアレキサンドリアから、小舟でこの地に流れ着いたと言う。
この3人のマリアというのはきっと、ケルトの水の三女神にちなんでいるのではないかと予想する。ヨーロッパでは古代の信仰の痕跡がキリスト教の中になんとか残されていることが多々ある。実際にこのラーの城壁もキリスト教が普及すると、修道院にして、舟や小島を意味するラティス(Ratis)が用いられ渡ったことから、ノートルダム・ド・ラティス(Notre-Dame-de-Ratis)と呼ばれている。
マグダラのマリアは、サント・ボームへと向かったが、マリア・ヤコベとマリア・サロメの2人のマリアは、この地に残って生涯を終え、聖人となって教会に眠っているとされる。
従者サラがジプシー(ロマ)の守護聖人であることから、この町は、ジプシーの巡礼地となっており、祭りには大勢のジプシーが集まって来る。肌の色が黒いサラ(Sara-la-Kali)は、エジプト人とも、マグダラのマリアの娘とも伝えらる。
5月と10月のマリアにちなむ祝日には、教会に納められた肌の黒いマリア像が海まで担がれ、旅立つマグダラのマリアを見送る場面を再現する祭りが行われる。
こんな風に現代でも南フランスにエジプトの神の足跡があることの不思議を受け入れるのははじめは容易ではなかった。この時から、おそらく私のヨーロッパ観が、がらがらと音を立てて崩れ去り、学校で教わった薄っぺらな世界史から一歩ずつ踏み出して、本当の旅がはじまったように思う。
誰かの本に書いてあることや聞いた話ではなく、導かれるまま、自分の足で歩き、手で触れ、空気やその土地の記憶を体中の感覚を解放して吸収し、その土地で生きる人に出会い、文化に語りかけ、感じるままに大地と人の祈りを通じたダイナミックなつながりを知りたいという気持ちにかられ始めた。
長い旅に出る必要はない。短い旅も、日常にふと立ち寄った場所も、なにか大きなものにつながる答えを知りたいという気持ちで過ごしていると偶然とは思えないような思いがけないサインが降ってくる。与えられたままに、一本一本の糸をタペストリーに編み込んでいくごとく繋いでいくと、幾重にも複雑に編み込まれた壮大な土の精神文化史というひとつの大きな絵がうっすらとでも浮き上がってくるのではないかという欲望がますます沸き立ってくるのだ。
プロヴァンスに伝わる聖マリアの伝説と巡礼
そのカマルグ地方に位置する小さな漁村、サント・マリー・ド・ラ・メールではじめて出会ったのが黒いマリアという存在だ。
サント・マリー・ド・ラ・メールはヨーロッパの古代史の主役たちであるケルト人、ローマ人、キリスト教徒、そして最近ではルーマニアのジプシーを含む一連の文化に崇拝されてきた聖地だ。
ケルトというとブリテンの一部に残っている古代文明という印象かもしれないが、フランスもイタリア北部も含む現代の西ヨーロッパの大部分でケルト共同体が存在していた。古代ローマ人からは一部をガリア人とも呼ばれていた彼らは、今で言うフランス・ベルギーあたりにおり、その文化や信仰の痕跡はあちこちに残されている。ケルトの人たちは神々は岩や水、木や土に宿ると考えた。
やおおろずの神の考え方は日本の神道にもあるし、縄文やアイヌの人々の自然崇拝にも通じる。もう一つ似ているのは、ケルトの人たちの信仰の中心に「異界」があったことだ。死は終わりではなく、魂は違う世界で生き続ける。
その違う世界は地中の国だったり西の方角にある海の彼方の常若の国だったり、山の中の洞窟であったりする。
キリスト教の世界では死は天国に行き、魂の終わりを意味するが、永遠に終わらない世界、再生し生き続ける魂の考え方が封印された古代史の世界では色濃く残っている。
南フランスで出会った、古代エジプトから続く死と再生の永遠なる循環。黒いマリアにはこの後にいろいろな場所で何度も出会い、桑と塩と月にまつわる文化がサインとなってつながってくる。
桑とは、月とは、塩とは何なのか。イタリアや北欧、そして日本でも壮大な地球の大地と共に土に祈り生きた人々が信仰したもの。そんな岩戸が開きはじめた12年前の旅だった。
つづく。。。