友の足音
ヘルベルト・ペルモーレあて
[一九一六年末]
ヘルベルト君、
きみが手紙をくれたことはとても嬉しかった。
でもきみの手紙は事物を即物的に伝えているだけで、ぼくらの間柄を考えれば必要になる根本的な前提条件を、無視しかかっている。ぼくの返信はその条件を踏まえていればこそ、見られるとおりのものに、つまりきみが要求すると同時に実行してもいるような種類の即物性にしんそこから異を唱えるものに、なっているわけだ。
夜のなかを歩みとおすときに助けになるものは橋でも翼でもなく、友の足音だ、ということを、ぼくは身にしみて経験している。ぼくらは夜のさなかにいる。ぼくは、ことばでもって闘争しようとつとめてみて(トーマス・マンが、あの下劣な「戦時下の思想」を公表していたしね)、そのときにわかったのだが、夜に抗して闘争する者は、夜のもっとも深い暗黒をも動かし、夜をも発光させなくてはならぬ。漸進的なこの巨大な努力のなかでは、ことばはひとつの段階にすぎず、そしてそれが最初の段階であるようでは、けっして最終の段階にはなりえない。
ジュネーヴでのぼくが眼にうかぶ。室内に、トランクの上に腰かけて。ドーラときみがいる。ぼくが主張している、生産的なものは(しかし批評も同様に)あらゆる意味において支持されなければならない、そして精神の生活はもっぱらすべての名とことばと記号でもって探究されなければならない、と。数年来、この夜のさなかから、ヘルダーリンの光がぼくの光明となっている。
何もかも、批評するには大きすぎる。すべては光をはらむ夜であり、血を流す精神の肉体だ。同時にまた、何もかも、批評するには小さすぎる。何ひとつありはしない。闇、暗黒そのもの、尊厳、だがそれらを考察しようとすれば、眼のまえはぼやけてくる。ぼくらの途上でことばが出現するかぎりで、ぼくらはそれに至純にして至聖の場を用意し、それをぼくらのもとに憩わせようとするだろう。ぼくらはそれを、ぼくらがあたえうるかぎりでもっとも貴重な、究極的な形式におさめて、保存しようとする。芸術、真理、法。たぶんすべてはぼくらの手から奪われるが、そうとしても、形ならぬ批評は奪われまい。これをなしとげるのは言語のわざではなく、各人の頭部をめぐる光輪の、はるかな円環のわざだ。ぼくらの仕事のほうは、言語と出逢うところで問題になる。言語のありかは、生命と密接に一体化しようとする事物、実証的なものだけに限られており、そしてこのものは、批評の光、善悪を判別する光を保持することなく、あらゆる批評的(クリテーイッシュ)なものを、危機(クリージス)を、内部へ、言語の核心のなかへ写し入れている。
真の批評はその対象に逆らわない。それはある種の化学的物質のように、他の物質を分解しながら破壊せずに、これの内的な性質を解明する、という意味でだけ作用する。こういうしかたで(特異体質者ふうに)精神的な事物に反応する化学的物質が、光だ。この光は言語のなかには現われない。
精神的事物の批評とは、真と偽との判別である。しかしこれは言語のわざではない。せめて遠まわしに隠れて、ユーモアとなるときのみ、言語は批評的でありうる。そのばあいには、模写されたものが光と接触し、分解する、という特殊な批評の魔術が、そこに現出するのだ。真が残る、灰として。それをぼくらは笑う。あふれるまでに光り輝く者こそが、その光芒でもって、ぼくらが批評と呼ぶあの天上からの曝露をも、やってのけるだろう。まさしく偉大な批評家は、驚異的なまでに真を見ていた。たとえばセルバンテス。
もはやほとんど批評をほどこす余地がないほどに真を見た大作家のひとりに、スターンがいる。ことばへの畏敬だけでは、まだ批評家は生まれない。対象への畏敬、目だたない真への。たとえばリヒテンベルク。そうなのだ、批評を表出しよう、言語化しようとするならば。これは大人物にだけできることだ。ひとびとは概念を濫用している。レッシングは批評家ではなかった。
きみに心をこめて挨拶する。
ヴァルター
ぼくの仕事をどれか読む気があるかい? ぼくはつぎの諸論文を書いた。
古代人の幸福
ソクラテス
哀悼劇(トラウアーシュピール)と悲劇(トラゲーデイエ)
哀悼劇と悲劇における言語の意味
言語一般および人間の言語について
(出典)『ヴァルター・ベンヤミン著作集14 書簡I 1910ー1928』晶文社、1975年、76-78頁。
氏家法雄/独立研究者(組織神学/宗教学)。最近、地域再生の仕事にデビューしました。