暮らしと学問 36 カフカの『変身』が私たちに教えてくれること
(はじめに)不条理文学の嚆矢とされるカフカの『変身』を最近読み直しました。ドイツ文学科に在籍してましたので親しみがありますが、数十年を経て読むと発見の連続です。
あらためてフランツ・カフカ『変身』を読む
ある朝、グレゴール・ザムザがなにか胸騒ぎのする夢からさめると、ベットのなかの自分が一匹のばかでかい毒虫に変わってしまっているのに気がついた。彼は甲羅のようにかたい背中を下にしており、ちょっと頭をあげると、褐色の腹のせりあがっているのがみえた。
(出典)フランツ・カフカ(山下肇訳)『変身』(岩波文庫、1958年、6頁。
「ある朝、グレゴール・ザムザ」という有名な一節から始まるのがフランツ・カフカの『変身』です。
いわゆる不条理文学の代表、あるいは嚆矢とも言える作品ですが、数年ぶりに再読してみました。読後して改めて実感するのは、救いがまったくないところがアルベール・カミュの『ペスト』と対照的だなあということです。
もう一つは、カミュの『ペスト』は徹底的なリアリズムで描かれているの対して、カフカのそれは、いわば、SF的な思考実験が散りばめられているという点に瞠目しました。
そもそも「毒虫」になってしまうこと自体がSFなのですが、毒虫になってしまえば、人間の会話を理解できない筈なのに……と僕は考えてしまいますが……、ザムザは人間の意志は理解できるものの、自身の意志は伝えることができない等などに出会うと、ディテールに注目せざるを得なくなってしまいます。
身体としての毒虫と意志としての人間ザムザの合成という思考実験は、単なる不条理を越えた、心と身体という心身論、あるいは生命論としての動物機械論にまで射程が及ぶ作品なのではないかと理解するならば、文学と哲学、あるいは暮らしと学問の喜ばしき邂逅とは、こうした気付きに存在するのではないかと考えています。
ふたたび、思考実験の意義とは何か
やがて、三人はうちそろって家を出た。もう数ヶ月このかた絶えてなかったことだ。電車にのって郊外へ出ていく。かれら三人しか乗っていない車中をぽかぽかした非材がいっぱいに照らしていた。三人はゆったりと座席によりかかりながら、行くすえの見通しをあれこれと語り合った。栓じつめてよく話しあってみれば、これからさき、一家はまんざら悪くないにちがいないことがわかってきた。
(出典)フランツ・カフカ、前掲書、82-83頁。
さて、筋書きだけに注目すると、毒虫に変貌する以前のザムザが、ザムザ一家(父、母、妹)の家計を支えていました。だからこそ、毒虫に「変身」してしまったその朝、朝寝坊してしまったことに「南無三!」とすら感じています。
しかし、意思疎通のできぬ一家は、ザムザを疎ましく思いながら、それぞれが自立していき、物語の終盤では、それをご破算にしてしまう……そして言うまでもないのですが、ザムザは人間と意思疎通ができないのですが……出現に対して、父親はかれに対してりんごを擲ってしまいます。そしてその怪我がもとでザムザは毒虫として生涯を終えてしまいます。
ザムザの視点から見れば、救いがない不条理というほかありませんが、家族の視点から見れば、「これからさき、一家はまんざら悪くないにちがいない」ことへと見通しを明るくします。
先にカフカの『変身』をSF的と言及しましたが、僕はSFの醍醐味をその思考実験にあると考えています。ディテールとしての心身論や動物機械論、そして筋書きとしての虫殺し(あるいは人殺し)の正当性等など、カフカの『変身』は私たちの思考実験を鍛え直す名著になるのではないかとも思えます。
しかし、ここで強調したいことがひとつあります。思考実験とはあらゆる可能性を考え直す契機といってよいと思いますが、極論を肯定するために援用されるものではなく、日常的な思考を鍛え直すところにあるのではないかと再度、考えさせられました。
ともあれ、カフカの『変身』はやはり現代の名著です。
外国文学の楽しみ方、あるいはその余韻
ある朝、グレゴール・ザムザがなにか胸騒ぎのする夢からさめると、ベットのなかの自分が一匹のばかでかい毒虫に変わってしまっているのに気がついた。固い甲殻の背中を下にして、仰向けになっていて、ちょっとばかり頭をもたげると、まるくふくらんだ、褐色の、弓形の固い節で分け目を入れられた腹部が見えた。
(出典)フランツ・カフカ(中井正文訳)『変身』角川文庫、平成七年、6頁。
山下肇訳でフランツ・カフカの『変身』を読み直しましたが、蔵書を整理していましたら、中井正文訳の『変身』(角川文庫、平成七年)が出てきたので、再び読み直しているのですが、訳文が異なり、ちょっと新鮮ですね。
かの有名な冒頭のドイツ語原文は次の通りです。
Als Gregor Samsa eines Morgens aus unruhigen Träumen erwachte, fand er sich in seinem Bett zu einem ungeheuren Ungeziefer verwandelt.
山下訳では、「ある朝、グレゴール・ザムザがなにか胸騒ぎのする夢からさめると、ベットのなかの自分が一匹のばかでかい毒虫に変わってしまっているのに気がついた」となります。
そして中井訳では、「ある朝、グレゴール・ザムザが不安な夢からふと目覚めてみると、ベッドのなかで自分の姿が一匹の、とてつもなく大きな毒虫に変わってしまっているのに気がついた」となります。
aus unruhigen Träumen という一節があります。直訳すれば「落ち着きのない夢から」となりますが、「胸騒ぎのする夢」と「不安な夢」に訳しわけられています。
外国文学を読むとは、そのスートリーを楽しみだけでなく、こういう訳し方があるのか! という気付きや発見もそのひとつの楽しみかも知れません。
カフカとおなじくドイツ文学を代表する文豪のひとりがゲーテです。彼の有名な言葉に次のようなものがあります。この言葉に関しても噛み締めてみたいものがありますね。
外国語を知らぬ者は、自国語についても何も知らない。
(出典)岩崎英二郎、関楠生訳「箴言と省察」 、『ゲーテ全集』第13巻、潮出版社、1980年、360頁。