見出し画像

一日一頁:中野孝次「乾燥の季節」、『ブリューゲルへの旅』河出文庫、1993年。

読むよころびは実在する

「農民の結婚式」(1565年)を前に、これほどまでの「一枚の絵に導かれ辿る自己検証の旅」があるだろうか。

独文学専攻の学生時代にのめり込むように読んだ記憶がある。稀代の文学者がこの文章を著した同世代人として今あえて追体験することの至福を感じている。

時間がなくても1日1頁でも読みないことには進まない。

わたしは前に立ってそれらの絵を見、考える。理想的社会などついに実現しないかもしれぬ。科学の進歩と人智の限りない発展が信じられていた十九世紀後半にエンゲルスが夢想したような、楽観的未来像をわれわれはもう信じることができない。科学がその発展の極限に世界を二十回も破滅させるに足る破滅兵器と核物理学を完成させ、社会の極度の組織化と技術化が人間をその生産物の生産物にまで奴隷化している地点に立っているわれわれには、もはや手放しで歴史の進歩をじることは不可能だ。われわれがいま歴史に深く関わらざるをえないのは、破滅させる巨大なものにたいする最後の防衛戦としてだ。わたしはカミュの言葉を覚えている、それは「われわれはすべての歴史を拒否しても、星と海の世界に共鳴することができる」というのだった。ほとんど人類最後の叫びのような言葉だ。石牟礼道子の描いた不知火海の星と海のこの世ならぬ美しさが、水俣病という悲惨のむこうに初めて現われたことを見ても、歴史というものが信じられなくなった先に初めて自然がその宇宙的広大において姿を現わしてくるのかもしれぬ。しかし地獄はなくならない。ひとはだれもが「三万ポンドの大僧正」になれるわけではなく、空義の数は無数なのだ。そしてブリューゲルが描いたのが、僧正の肖像ではなくて、こんないわば歴史の出来損いのような村の人間たちであったということは、彼がこれだけを唯一の人間的現実と信じていたことを示すのだろう。

中野孝次「乾燥の季節」、『ブリューゲルへの旅』河出文庫、1993年、118-119頁。


いいなと思ったら応援しよう!

氏家 法雄 ujike.norio
氏家法雄/独立研究者(組織神学/宗教学)。最近、地域再生の仕事にデビューしました。

この記事が参加している募集