あんときのフィルムカメラ 1990年代の一眼レフの記憶をたどりながら CONTAX RTS + Carl Zeiss Tessar T* 45mm F2.8
哲学とは何か
臨床哲学者の鷲田清一さんは、フランスの思想家モーリス・メルロ=ポンティの言葉を引用しつつ、哲学とは、「人生の《初期設定》、あるいは社会生活の《フォーマット》を改めて問い直すこと」といいます。
つまり、私たち自身が改めて考えてみたり、再び点検しようとしない「あたりまえ」のことを疑うことから哲学は始まるとの指摘です。
しかし、「あたりまえ」のことを疑うというのは、勇気のいるものです。
なにしろ「それまであたりまえの前提であったことが崩れる、不明になる」ということですからね。
ただ、そこに注視することで、物事を深堀りしていくことが初めて可能になるわけですから、ふと立ち止まっては、改めて考えてみたり、再び点検してみることはおすすめです。
さて、「当たり前の前提」についてですが、いわゆる一眼レフカメラの「当たり前の前提」といえばどうでしょうか?
1990年代にフィルムカメラを趣味とし初めた僕にとっては、やはりニコンやキヤノンが一番に想起されますが、皆さんはいかがでしょうか?
市場規模的にも「当たり前の前提」ではないかと僕は考えています。もちろん、オリンパスやペンタックスも頑張ってはいますけれどもね。
「哲学とはおのれ自身の端緒がたえず更新されてゆく経験である」--人生の《初期設定》、あるいは社会生活の《フォーマット》を改めて問いなおすことを、モーリス・メルロ=ポンティはそのように表現した。「おのれの端緒がたえず更新されてゆく」というのは、それまであたりまの前提であったことが崩れる、不明になるということである。
(出典)鷲田清一『哲学の使い方』岩波新書、2014年、iii-iv頁。
ニコン、あるいはキャノンとは異なる選択肢
しかし、実際、1990年代初頭のマスメディア底辺にいた頃、「仕事」で使っていたのは、ニコンやキヤノンの一眼レフカメラだったと記憶しています。
写真部にいたわけではありませんので、ニコンのF4やキヤノンのEOS1ではありません。職場の共有の、前者で言えば、F3とかFA、後者ですと、EOS620あたりで「仕事」をしていました。
趣味のカメラとしては、バルナックライカとM3あたりを使用していましたので、一眼レフカメラとは縁遠い生活をしていましたが、そのとき、職場の先輩から頂戴したのが、コンタックスの139quartzとディスタゴン28mmとプラナー50mmのセットでした。
ニコンやキヤノンのフラッグシップモデルに比べると、非常に小さな一眼レフでしたが、噂に聞くカールツァイスのレンズに魅了されたものです。ほぼほぼフルマニュアルで撮影していましたが、懐かしい思い出です。
思えば、職場の先輩がオリンパスのOM4で天体写真を撮影していたことも記憶しております。
たしかに、ニコンやキヤノンのカメラ素晴らしく、そしてそれと同じように、ニコンやキヤノン以外のカメラも素晴らしいのですが、シェアで言及してしまうと、ビッグツーに隠れてしまいがちなのも事実で、カメラファンとしては隔靴掻痒ですね。
と言いながら、これまた、ニコン党の職場の先輩に勧められ、ニコンのニューFM2とかF2フォトミックを同時期に購入はしましたが、当時はあまり使った記憶がありません。
まあ、それは人それぞれということでしょうけれども、自分自身の記憶をたどり、それを記録として残すならば、1990年代前半のフィルムカメラの世界の一コマというところでしょうか。
ひとは「いま」という現在だけがあり、未来と過去は不在のものだとおもっている。来るものと去るものとして未来と過去を理解している。けれども現在もまた現在でありつづけることができず、現在となったときはもう現在でえはない。現在としては消失している。
(出典)鷲田清一、前掲書、48頁。
1990年代から現在へ
思えば、当時、四谷三丁目駅を降りてすぐのところの中古カメラ屋に「我楽多屋」(新宿区荒木町)さんがありまして、そこのショーウインドウーに飾られていたのが、ワインダー付きのコンタックスRTSで、いつかはあのポルシェデザインのスマートカメラを使ってみたいなあと思いながら、カメラから遠ざかってしまった現在です。
ただこのところぼちぼちとフィルムカメラを再起動しはじめましたので、思い切ってRTSと「鷹の目」と呼ばれるCarl Zeiss Tessar T* 45mm F2.8 を手に入れました。
明らかに139よりも筐体は大きいのですが、それでも引き締まったボディとフェザータッチと呼ばれるシャッターの軽さは快適ですね。
ちょうど桜の季節。半月ほどこの組み合わせで撮影してみました。
東京に長くいましたので、撮影するとやはり都市を被写体にしたいと思いながらも、それでも田舎の自然にファインダーを向けてみると、まあ、それはそれでいいものです。
さて、インプレッションですが、久しぶりにツァイスのレンズを使ってみましたが、優秀なボディと相俟って、どんどんとフィルムが消費されてしまうことにまずは驚きました。
そして、小ぶりなボディがやはり軽快で撮影していて「楽しい」ということを改めて認識いたしました。
そして一番驚いたのは、標準レンズでも広角レンズでもない45mmという画角が非常に使い易いということです。被写体に対して引いたり、近づいたりすることなく、(そしてそのこと自体が僕の印象批判かも知れませんが)、その画角がベストフィットしていたことです。
開放では端正なボケ、そして絞るとシャープな画作りは、さすが「鷹の目」といったところでしょうか。
何かを思い出すこと、つまり想起は、ある「いま」において一つ前の「いま」を分離できるからこそ可能になる。ちょうど静寂な「いま」となってはじめて先ほどの轟音が想起できるように、時間はこのように、現在と過去との両立不可能な関係の成立(分離・共存)とともに成立する。
(出典)鷲田清一、前掲書、54頁。
以下、拙い写真ですが作例です。
↑ f8、1/500
↑ f5.6、1/500
↑ f2.8、1/125
↑ f5.6、1/500
↑ f8、1/250
↑ f2.8、1/1000
↑ f5.6、1/250
↑ f11、1/1000
↑ f5.6、1/500
↑ f2.8、1/2000
↑ f2.8、1/2000
↑ f5.6、1/500
↑ f5.6、1/500
↑ f11、1/1000
↑ f11、1/500
↑ f11、1/250
↑ f11、1/250
↑ f2.8、1/1000
↑ f5.6、1/1000
↑ f5.6、1/1000
↑ f5.6、1/1000
↑ f4.0、1/250
↑ f8、1/1000
撮影は2021年3月23日から4月6日にかけて。フィルムは、富士フイルムカラーネガフイルム フジカラー 100を使用。香川県仲多度郡多度津町、三豊市で撮影しました。ちょうど桜が盛りの2週間の瀬戸内の情景をスケッチしました。田舎暮らしは不便ですが、なかなかいいものだとようやく思えるようになりました。