見出し画像

暮らしと学問 37 「暮らしと学問」再論 フッサールの眼差しをたよりにしながら

(はじめに)この連載を始めたきっかけになるのですが、新しい年のはじめに今一度「暮らしと学問」の理想的な関係を考えてみました。異なる他者が異なる他者として快適に暮らしていくためにこそ暮らしと学問は関係すべきではないでしょうかねえ。

学問と暮らしの分断という不幸

 この連載をはじめたきっかけにも通じるのですが、端的に言えば、現在の違和感というものは、学問あるいは叡智というものが、暮らしや現実といったものと「切り結ぶ」ことができていないということです。

 いちおう、20年以上に渡って学問に携わってきまして、そして現在では、その学問をあざ笑う世間さまのど真ん中でどっぷり仕事をしておりますが、学問と暮らしが「切り結ぶ」ことができないことほどの不幸はないのではないかという感慨をいっそう深めております。

 いぜん、僕自身の課題としても言及しましたが、学問の立場から「お前らアホか」という偉そうな立場は不毛であるだけでなく有害であり、そしてその尊大な態度は学問の自殺行為に他ならないと考えています。

 そして同じように暮らしの立場から「偉そうに言うな」というのも、その感覚はわからないではないですが、そのような立場も不毛です。

学問と暮らしの往復関係

 なぜならば、学問がその専門性を徹底的に深めながら、後世へと普遍的真理……あるいは、それを公共性と呼んでも良いかも知れませんが……を伝えていく現場は暮らしのなかにあるからです。時代を画する世紀の発見ひとつとってもそれは暮らしとは無縁ではありません。

 有名な逸話ですが、浮力の法則を発見したアルキメデス、あるいはニュートンのりんごを引証すれば、その消息は手にとるように理解できるのではないでしょうか。

 そして暮らしに注目すれば、私たちの日常の暮らしとは、ややもすれば独りよがりなもになりがちです。

 暮らしとはプライベートな空間だから「独りよがりでもいいじゃないか」という意見もありそうですが、独りよがりというものは、そのひとの考え方だけに収斂するものではありません。

 例えば、洗濯ひとつ、食事の用意ひとつ取り上げてみても、それが「独りよがり」なものであった場合、それが無駄の積み重ねであった場合はどうでしょうか? その無駄が余分な水道代や電気代を消費しているかも知れません。

 だとすれば、最新の知見と照らし合わせながら生きていく方が、人間は快適に暮らしていけるのではないかと考えています。

 その意味では、暮らしと学問は密接につながっているものであり、相互に批判的に切り結ぶべきでないかと僕は考えています

フッサールの眼差し

 さて20世紀の思想史を大きく塗り替えたのがドイツの現象学の創始者である哲学者フッサールです。従来、人間という主観の外に客観なるものが実在し、それを人間が理解するという世界観でしたが、現象学は私たちの主観こそが私たちの外に実在する(しているように見える)客観なるものを意味を与えているのではないかと提案し、ものの見方を180度転換することになりました。

 しかし、本来バラバラである筈の人間が、どうして他者を人間であると理解し合えたり、りんごがりんごであると認識できるのでしょうか

 晩年のフッサールは『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』という著作のなかでその問いと格闘します。これまでフッサールは、意識の経験を厳密に分析することを課題としましたが、『危機』では、意識の経験を支えるものは何かということが主題になります。

 そこで注目するのが生活世界相互主観性というキーワードです。他人が存在することは普遍的真理の実在という問題ではなく、あくまでの私たちの「確信」に過ぎません。しかし私たちはお互いが存在することを妥当性のあるものと理解しているのが事実だとすれば、同じように、自分自身の身体、そして自然や事物の村内に関しても革新していなければ生きていくことはできないと考えました。そしてそれがアプリオリなものであると認めたのです

 フッサールの晩年は、ナチスが擡頭し、非合理主義や神秘主義の蔓延した時代で、その空気がファシズムを後押しすることになります。その時代において、フッサールは改めて生活世界に注目することで、異なる他者と生きることはどのようなメカニズムとなっているのかと考えたのですが、等身大の理性や合理性の復権といった思想は生活世界の中で鍛え上げられていったことに注目したいと僕は考えています。

 暮らしと学問の相互批判、あるいは密接な連携こそ、人間を人間として尊重するあり方を提案するものになるのではないでしょうか。


氏家法雄/独立研究者(組織神学/宗教学)。最近、地域再生の仕事にデビューしました。