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一日一頁:ギュンター・アンダース(岩淵達治訳、高橋哲哉解説)『われらはみな、アイヒマンの息子』晶文社、2007年。

想像力の枯渇は良心の欠如へと繋がり「われらはみな、アイヒマンの息子」として「機械」になる。いまもそうだ。「想像するという試みは失敗する」。

しかし「試みは失敗したときにどういう反応をしたかという問い」によって私たちの目が開かれる。

 機械の原理には良心のかけらさえ欠如していることをこれほど確実に保証し、これ以上に宿命的なものはないといってもいいのは、機械の良心の欠如がすでに瑣末なことになってしまったという事実があるからです。瑣末だとみなされれば、顧みられることがなくなる。目につかなければ、一切は矛盾がないものと受け入れられてしまうのです。
 もちろんこの機械化の過程は、世界に対する機械の戦いとしてだけでなく、つねに同時に世界を奪取しようという戦いにおいて、機械が獲物を求めながらお互い同士で戦いあっている競争としても進行していきます。しかし、機械が二正面に向かって戦っているという事実は、最終目標がひとつであることを害なうことはありません。最終目標はそもそもの初めから「全体の征服」であり、これからもそう呼ばれるでしょう。機械が望んでいるのは、自分たちに奉仕しないものが一切存在しなくなる状態です。「ともに機械化する」ことをしないものは存在しないし、「自然」も存在せず、いわゆる「より高い価値」も存在せず、それに(私たちは機械からみれば奉仕もしくは消費を行う組織としか見なされていないので)私たち人間も存在しないことになります。人間がいなくなっても存在するのは機械だけです。
 その機械さえもう存在しなくなってしまう。ここで私のキーポイントである「世界機械」という概念に達するのです。その内容は何でしょう。
 もし機械が本当に世界をあますところなく征服したらどうなるかと仮定してみましょう。小規模にならヒトラーの機械がドイツを余すところなく征服したことはありました。ともかく征服後は、機械と機械に類したものしか残っていません。世界は巨大な「画一化された」機械の庭園になってしまう。

ギュンター・アンダース(岩淵達治訳、高橋哲哉解説)『われらはみな、アイヒマンの息子』晶文社、2007年、78-79頁。

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氏家 法雄 ujike.norio
氏家法雄/独立研究者(組織神学/宗教学)。最近、地域再生の仕事にデビューしました。