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孤立無援の立場
時代という「状況」があろうとも、状況を超えて通底するものがある。それが一回性という制限のなかで生きる人間の「態度」というものであり、その態度の核になるのが「哲学」ではないかと僕は考えています。
1960年代という「状況」のなかでも撤退するでも進軍するでもなく、大学教員として主体的に社会に関わり続けた人物が高橋和巳であり、その立場は「孤立無援」と集約することが可能ではないかと思います。
孤立無援の思想とは、自らの論考のタイトルにも付与されていますが、その末尾は次のような一文で結ばれています。すなわち
「これも拒絶し、あれも拒絶し、そのあげくのはてに徒手空拳、孤立無援の自己自身が残るだけにせよ、私はその孤立無援の立場を固執する」(「孤立無援の思想」、1963年)。
高橋のいう「孤立無援」とは、いったい、どのような立場でしょうか。
それはその軌跡からも浮かび上がるとおり、自己陶酔的心情でも放縦をでもない、実存的苦悩のただなかにあり続けるという立場です。
自滅的撤退でも、自己批判でもない葛藤にあり続けることで、実は状況を更新できるかもしれないーー高橋和巳の思想や立場、そして実践はその創造性をアクチュアルなものとして浮かび上がらせるものだと僕は理解しています。
文句をたれる連中は多いですが、それでも「前へ進むのだ」という楽天性を放擲することなく歩き続けることが僕の使命ではないかと高橋和巳は背中を押してくれているようにも思えます。
やるべきことが多すぎて目が回るというのが正直な毎日ですが、それだけやるべき仕事があると思えば、まだ「仕合せ」なのかも知れません。
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