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【63】B29に実は大損害を与えていた日本軍の迎撃、そして硫黄島の戦いの意味:敗戦の日にまじめな話をします。 2022.8.15

 ロシアのウクライナへの侵攻、中国の膨張圧力の台湾、尖閣への侵攻脅威、北朝鮮の核ミサイル開発と、にわかに急迫の度合いを増す今の日本を取り巻く環境の中で迎えた8月15日敗戦の日に、あの戦いはなんだったのか、B29との戦いの話を中心にまじめな話をしたいと思います。

 B29は機体重量30t、全長30mで、最大10tの爆弾を搭載でき、フル搭載時の航続距離は4900km、戦闘行動半径は2645km、最高速度は644km/hと零戦をしのぎ、上昇限度は13000m、12.7mm機関銃12門と20mm機関砲1門いう猛烈な火力を有する「スーパーフォートレス:超空の要塞」といわれた規格外の巨大爆撃機でした。

 ご存知のように、B29は先の大戦の末期1944年に登場すると終戦までの1年弱の間に日本の各都市を次々に爆撃し大打撃を与えました。

 中でも1945年3月10日の東京大空襲では、2360km離れたサイパン、テニアン、グアム島などのマリアナ諸島を飛び立ったB29の295機もの大編隊が、38万1300発、1,665トンにも上る焼夷弾による絨毯爆撃で東京下町を火の海と変え、一晩で10万人もの市民を焼き殺し、27万戸もの家屋を焼き払ったのでした。それまでは軍事施設を狙ってピンポイント爆撃していたのを、狂人カーチス・ルメイが民間人の住む町を無差別に焼き払いとにかく日本人を徹底的に痛めつけることを目的とする方向に舵を切ったその最初の爆撃だったのでした。

 この大戦果に味を占めたルメイはその後名古屋、大阪、神戸、名古屋、東京へと数百機での無差別爆撃を繰り返して日本の大都市を破壊しつくし、さらに鹿児島、福岡、静岡等の地方都市にも数百機による焼夷弾爆撃を行っており、B29は日本国民が最も恐れる悪魔の兵器となったのでした。

 そしてさらに8月6日広島、8月9日長崎に原子爆弾を落としたのもこのB29です。

 東京大空襲の焼夷弾も、原子爆弾も、いずれも事前の警告もなしに、いきなり人口が密集した大都市に投下して市民を無差別に大量殺戮した、国際法に明白に違反した残虐極まりない「人道に反する大罪」でありました。

 東京裁判ではインドのパール判事が連合国の多数意見に従わずに「米国による原爆投下こそが、国家による非戦闘員の生命財産の無差別破壊としてナチスによるホロコーストに比せる唯一のものである。日本はすべてにおいて無罪、逆に連合国の側こそが裁かれるべきである」との意見書を提出していますが、もしも最終的に日本が勝利して逆の立場でアメリカを裁いていたのなら、この大罪の責任者が絞首刑に処せられたことは明らかであり当然だったと思います。

 このように日本を蹂躙したB29は、
「日本の高射砲が届かず、航空機が到達できない1万m以上の高度から、悠々と爆撃をし、帰っていったのであり、日本軍はなす術もなかった」
と多くの人が信じているというか、信じ込まされていたように思います。

 日本が米軍に大きな打撃を与えていたなどということは、学校でも新聞などの誰からも教えてくれず、私自身もやられっぱなしだったのではないかと思っていたのです。

 ところがそうではなかったのです。下の動画を見ると、米国戦略爆撃調査団の報告という米側の資料に、B29の総製造数3970機のうち第2次大戦で使われたのは2500-3000機で、その内の485機が撃墜され、2707機が何らかの損傷を受けたと報告されているのです。つまり5機に1機が墜とされ、ほぼ全機が損傷を受けていた、そして11人乗りのB29の戦死者は3041名に登り、日本の特攻隊の死者4000名に迫る数だったというのです。

 なぜそれほど大きな損害を受けたのか、なぜそれでもB29の爆撃は続けられたのか、

 一つはサイパンと東京の距離にありました。

 2360kmという距離はB29の行動半径2645kmのぎりぎりの距離です。そして戦闘機でこのような航続距離を有するものはなかったため、B29の爆撃は自らの重装備を頼りにした護衛なしの状態で行われていたのです。 

 しかし1万mの高度からでは精度の高い爆撃はできず、爆撃時は高度を下げざるを得なかったため、日本軍の戦闘機や高射砲の餌食にもなったのでした。

 ルメイはあまりにもB29の被害が大きいことで何とかしろと文句を言われますが、それでも与える被害の方がはるかに大きいと、そのまま爆撃を続けさせたといいます。

 しかし硫黄島が落とされると状況が変わるのです。

 硫黄島までの距離は1175km、P51ムスタング戦闘機の航続距離が増槽ありだと2655kmであり東京への往復が可能となるのです。硫黄島から飛び立ったP51が護衛に付くことで、B29の損害は激減したのです。

 また損傷を受け、それまでならサイパンまでの長距離の帰還途中で洋上に墜落せざるを得なかった機体が、硫黄島に不時着でき、すぐに修理されて再使用されるようになったことが機体及び人員の損害を大きく減らすことにつながったのです。

 日本軍はマリアナ沖海戦で大敗を喫し、大損害を受けて、この地域の制海権を失います。

 そして生じた圧倒的な戦力差がある中で、日本軍はなぜ全員玉砕してまでグアム、テニアン、サイパンなどのマリアナ諸島や硫黄島のようなちっぽけな南海の島を死守しようとしたのでしょうか?

 その理由は本土を、家族を、米軍の爆撃から守らんがためだったのです。

 マリアナ諸島を取られると本土はB29の爆撃圏内に入ってしまう。硫黄島を取られると護衛が付き爆撃が格段に容易になってしまう。これらの島々の戦略的重要さを日本軍は、守備隊は知り尽くしていたのでした。

 数年前に下記の本を偶々見つけて読んで感動しました。

【書評】優しさと気迫と軍才と:梯久美子著『散るぞ悲しき』―硫黄島総指揮官・栗林忠道  nippon.com

 マリアナ諸島はわずか数日の戦闘で落とされ、占領されてしまいます。その余勢をかって硫黄島に進出してきた米艦隊は、山の形が変わるほどの猛烈な艦砲射撃を浴びせたうえで、3日で落とせると豪語し意気揚々と上陸してきます。
 その圧倒的な米軍の物量に対し、銃弾も尽き、食糧や水も決定的に不足する中で、自ら先頭に立って守備隊員の士気を鼓舞し、徹底したゲリラ戦に引き込んで硫黄島を1カ月以上もの間守り抜き、守備隊全員に慕われながら散った栗林中将は、辞世の歌を遺し、硫黄島を守り切れず首都東京に空襲を許してしまったことを、務めを果たし得ず悲しい、と詠んでいます。

「国の為重き務を果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき」

 しかし、この硫黄島での日本軍の凄まじい戦いぶりに(実はこの絶望的な戦力差の中で死傷者数は米軍の方が多かったというのです)、そして続く沖縄戦でも米軍は予想外の大きな損害を受け、日本軍の驚異的な強さに恐怖し畏怖の念を抱くのです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A1%AB%E9%BB%84%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84


 米軍は、もし日本本土への上陸決戦を行って、そこでも沖縄戦のような抵抗を受けたならどうなるかをシミュレーションし、自軍にもあまりにも膨大な損害が生じることを知って、憎き日本人を徹底的に痛めつけることを断念し、B29による無差別爆撃や原爆投下などの人道的大罪を犯して恫喝し、本土決戦を行わずに日本を降伏させる方針に切り替えたのです。


 日本側も趨勢を挽回することは最早不可能、本土決戦を行った場合の国民の甚大な被害を考え、最終的にポツダム宣言を受け入れて降伏し、米軍による無血占領が行われることになったのです。

 もしも硫黄島や沖縄での日本軍の死を賭した壮絶な戦いがなかったら、米軍は日本本土全域に上陸して掃討戦を行っており、そうなれば、その後の日本の復興、米国との関係改善などは有得ない状況になっていたかもしれないのです。

 栗林中将は重き務めを果たしていた

我々がこうして漫然と平和ボケして暮らしていられるのは、こうした先人達の血によって贖われたものだということを忘れてはならないと思います。

 長くなるので、以下はまた改めて述べたいと思いますが、そもそも、なぜ300年間平和に暮らしていた日本が、明治以来急に戦争を繰り返すことになったのか、それは欧米諸国の世界侵略から日本の独立を守るためであったことは、少しでも自分の頭で考えればわかることだと思います。

 戦争は嫌だ!当たり前です。
 
 しかし、もしある日侵略してきた敵兵に目の前で奥さんや娘を強姦され、連れていかれようとされても、「どうぞ、どうぞ、私は戦いはしないことにしております。あなた様のお気持ちの晴れるように存分になさってください。」とニコニコしながら言えるくらい覚悟と腹の据わった奴だけが「戦争は絶対にしません。間違いは繰り返しません。」などという資格があるということを肝に銘じて欲しいと思います。

 こうして書いたことに対して批判するも賛成するも自由です。ただし、私は日本が悪いことしかしなかったという人、良いことしなかったという人のどちらにも組しません。
 今は色々な資料をネット上で見ることができます。私の書いたことも含め、新聞やテレビや他人の話等を鵜呑みにするのではなく、様々な視点から調べて検証し、自分の力で考えることをしたうえで、相手に敬意を持った議論をするようにして欲しいと思います。
 ご意見をお待ちします。

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