「傲然と墜るもの」鈴木しづ子抄 海皇宗治
カンナ俳句会「今月の一句」
私の所属しているささやかな俳句結社「カンナ俳句会」は熱心に俳句に向き合う者が多く、コロナ前には毎月句会を開き、機関誌である「カンナ」という小冊子を毎月発行していました。
(コロナの時は句会も開けず活動は困難を極めましたが、現在は隔月で句会を開き機関誌もそれに合わせて隔月で電子発行という形まで戻して来ています。)
「カンナ」では、会員の中に俳句のことならなんでも知っているという大先達が何人もおられ、そのような方が歴代の代表兼編集長を務め、機関誌の巻頭の第1ページに、「今月の一句」として様々な俳人とその代表句の紹介をすることを恒例としていました。
紹介されたのは、芭蕉、蕪村、一茶、子規、虚子といったビッグネームは勿論でしたが、私のような初心者が名も知らなかった俳人が取り上げられる回も多く、そうした方々を教えていただけるこの紹介文は毎号楽しみでなりませんでした。
この文を書いた当時は、麦處さんという名物編集長が健筆を揮っておられて、この頃、麦處さんに紹介して頂いた、鈴木しづ子さん、「竜宮」の照井翆さん、不思議な句をつくる摂津康彦さん などについては特に深く印象が記憶に刻まれています。
ここで取り上げる、鈴木しづ子さんについては中でも強烈な印象を受け呪縛と言ってよいほど惹きつけられたのでした。
受けた衝撃をなんとか自分の中で消化し、形にして外に出さなければ落ち着いて休むことができない、そんな想いに捉われて書いたのがこの一文です。
ということで、この文では、最初に、麦處さんによる紹介文を掲げ、それを受けて私の感じたこと、想像したこと、調べたことなどを書いていきます。
謎多きしづ子の生涯に私なりに取り組んだこの句論、目を通していただけたら幸いです。
**********************************
麦處編集長による鈴木しづ子の紹介文
*カンナ第三百十六回平成二十八年七月号*
<今月の一句>
夏みかん酢つぱしいまさら純潔など 鈴木しづ子
鈴木しづ子(本名・鎮子 一九一九~生没不明)東京は神田三河町の生まれ。製図専門学校を卒業後、機械製造会社にトレース工として勤務。職場の句会に参加し、上司に俳句の手ほどきを受ける。その後、句会の指導者として来訪していた松村巨湫に師事、巨湫の結社「樹海」を活躍の場とする。第一句集「春雷」(一九四六)によりデビュー、喝采を博す。
「春雷」より、初期の句を。
とほければ木蓮の道選びけり
時差出勤ホームの上の朝の月
あきのあめ図面のあやまりたださるる
春さむく掌もていたはる頬のこけ
婚約者の戦死、結婚と離婚などいろいろとあったようである。
東京から埼玉、そして岐阜へと流れ、ダンスホールの踊り子として身を立てた。
各務原で黒人米兵と暮らしていたというが、最後には生き別れることに。師の松村巨湫宛てに大量の句稿を送っていたようで、それを編集して第二句集「指環」を上梓。「春雷」とはがらりと趣がかわり冒頭の句のような句が多くなる。
スキャンダラスな生き方と相まって、肉感的、露悪的な句がセンセーションを巻き起こした。「指環」から何句かを。
コスモスなどやさしく吹けば死ねないよ
ダンサーになろか凍夜の駅間歩く
花の夜や異国の兵と指睦み
娼婦またよきか熟れた柿食うぶ
霙けり人より貰ふ銭の額
黒人と踊る手さきやさくら散る
落暉美し身の係累を捨てにけり
傲然と雪墜るケリーとなら死ねる
雪こんこん死びとの如き男の手
生来まじめで親孝行、背が高い美人であった。強烈な印象の句を作るようになった経緯、どのような生き方をしていたのか未だに不分明のようである。これらの句において、季語の役割はあまりに軽いように思える。
一九五二年、「指環」の出版記念パーティーに岐阜から引っ張り出され、それ以後消息不明。生きていれば今九十七歳。
「みなさんごきげんよう、さようなら」
「指環」出版記念パーティーで人々が聞いた鈴木しづ子の最後の言葉である。
********************
序-1 これが俳句なのか!
冒頭に掲げたカンナで麦處さんに紹介いただいた鈴木しづ子という人の幾つかの句の中で、
前期「春雷」の句についてはさほどの感銘を受けなかった。
しかし、後期の「指環」の句、中でもこの句は衝撃だった。
傲然と雪墜るケリーとなら死ねる 鈴木しづ子
これは一体なんなのだ!
手帳に記された断片?
日記に書かれた走り書き?
これが俳句なのか?
こんな俳句があってよいのか!
侘び寂び、俳味などとは対極にある世界。
俳句というのはきっかけを与えるもの
後はすべて読む者の想像に任せますという潔さこそが俳句なのかもしれない。
であるならば、どこまでが真実でどこからがフィクションなのか、いったいそこに何があったのか?
想像力を強烈に刺激するこの句の持つ力は尋常ではない。
一読以来、この句と、その物語が映像となって脳裏に浮かんで離れてくれないのだ。
序-2 娼婦
娼婦、世界最古にして、今でも、どんな国家体制の国でも、無い国は無い商売といわれる。
自らの肉体を他者に与えるという行為ゆえに.聖性を持って語られることもある。キリストの愛人と言われるマグダラのマリア、罪と罰のソーニャ、貧しさゆえに家を救うために身を売った数えきれない数の世界中の少女達、
しかし、愛無くして体を売る行為は、どの世界においても日向の女たちからは憎まれ、蔑まれるものであり日陰の商売でしかありえなかった。
奥底のしれぬ寒さや海の音 遊女 歌川
なんという句だろう。
どのような背景でつくられた句なのか私は知らない。ただ私の中に浮かぶのは盛りを過ぎかけた遊女の姿。 座敷がかからず、一人寒い寒い小さな部屋で日本海に荒波が寄せる音を夜闇の中で聞いている。これからわたしはどうなってゆくのか?歌川という一人の遊女の奥底の知れぬ寂寥と不安と孤独が胸に迫るのだ。
1 傲然と墜る雪
降る雪を傲然と、と形容した例を私は知らない。降る雪を「墜る」と表記する例も私は知らない。ただ無心に深々と降る雪を、「傲然と墜る」と感じたしづ子の心情を思うと傷ましくて、傷ましくて、居たたまれなくなる。
生来まじめで親孝行、背の高い美人であったという。
戦後の混乱期、婚約者の戦死、結婚と離婚など色々あった末に東京から埼玉、そして岐阜に流れ、ダンスホールの踊り子として身を立てたと麦處さんは書く。
占領軍の米兵、それも黒人兵相手のダンサー、そして娼婦、なぜしづ子は娼婦になったのか。
腕の中で踊ることと、腕の中に抱かれることは一つながりのこと、そのようなダンスホールでダンサーと娼婦に境界などなかったのかもしれない。
美貌で才長けたしづ子は花形のダンサーだったのであろう。そのような小世界の中で求めてくる相手に体を与えることは、自然な成り行きであってなんの不思議もなかった。しかしいずれにしても、当時の倫理観からして、ダンサーは、まして娼婦など、世間に顔向けできる商売ではない。
世が世であれば優しい夫や子供たちに囲まれ、俳句を趣味として幸せに暮らしていたはずのしづ子は、そんな自分のいた世界から眉を顰められ、好奇の目で見られ、爪弾きされる存在となった。
2 情景
引いて俯瞰
雪が降り出している
季節は二月半ば、
雪の落ちる先は場末の盛り場、
深夜をはるかに過ぎて、
もう通る人もほとんどいない
カメラが寄ると女の姿
ダンスホールを出た少し先の路地、
膝を抱え俯いて小さくうずくまっている、
その髪に肩に雪が降り積もってゆくのに女は動こうとしない
そこへ一人の男が通りかかる
大きな体の黒人兵
女に何か声をかける
女が顔を上に向ける
「ああケリー」
それだけが聞こえた
ケリーが女を引き起こし
雪をはらって自分のコートの中に抱き込んで
二人一緒にどこかへ消えてゆく
雪は止むことなく降り続ける
3 激流に架かる橋
宴の間はよかった
しづ子、しづ子と争って声をかける兵隊たちの間で、求められるままに腕から腕へ休む間もなく踊り続ける一夜、、
しかし、兵隊たちにとってしづ子は、ひと時の享楽の相手でしかない
その夜、宴がはねた後、
ホールを出たしづ子には帰る場所がなかった
少なくとも帰りたいと思う場所がなかった。
無理に飲んだアルコールがまわり疲れ切った体、
これからどうしようか、どこに帰る?
これから私はどうなってゆくのだろう?
このままここに頽れてすべてを忘れて眠ってしまいたい
座り込んでしまうしづ子
しかし降り出した雪がそれを許さなかった。
そこはお前の場所ではないと追い立てるように
降られるものの心情などになんの斟酌も無く遠慮会釈なく雪が降る
それをしづ子は「傲然と」と感じたのではないか
世界中に自分の存在を許してくれる場所が何処にもない
それを思い知らせるように深々と降ってくる雪
そのとき、「しづ子、しづ子、大丈夫?」と声をかけた者が居た
振り仰ぐと、ケリーが心配そうにしづ子をみていた
「ああ、ケリー」
うずくまったしづ子を引き上げて腕の中に抱きしめるケリー
サイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」の中にこんな一節がある。
もしも君が自信を無くし落ち込んで
帰る場所もなく街角に立ちつくすとき、
僕は君の隣に居よう
激流にかかる橋のように
僕はこの身を投げ出そう
その夜、ケリーだけが、しづ子のそばに居てくれたのではないか。
ケリーとなら死ねる
世界の中でケリーのそばだけがしづ子の居られる場所だった。
4 しづ子
しづ子は、米兵と同棲していたが最後は生き別れたという。
この句が 「ケリーとなら生きてゆける」 ではなかったことに、しづ子の孤独の深さを感じるのだ。
ケリーがしづ子のこの句を知っていたとは思えない。
ケリーが俳句を理解できるようなそんな存在だったとはとても思われない。
優しい人であったのだろう。
しかしそれだけでしづ子の心は埋まらなかったのではなかったか
旧師の下に大量に送っていたという句稿、
そのような中で必死に記していた俳句は、
しづ子が過去の自分、日向の世界の自分とをつなぐための蜘蛛の糸、
自らをを保つための矜持、
最後の砦だったのかもしれない。
そんな句が編集され、句集「指環」に、まとめられ、パンパン俳句と呼ばれてセンセーションを呼び、出版記念パーティに引っ張り出されたしづ子、
しかし、やはり、そこには珍奇な動物を見るような、好奇の眼差ししかなかったのかもしれない。
自ら招いたこととはいえ、
しづ子の心の中までわかってくれるそんな相手はいなかったのだろう。
「みなさんごきげんよう、さようなら」
そう言い残してしづ子は世間を拒絶し、消息不明になったという。
傲然と墜ちていったのはしづ子自身だったのかもしれない。
<挿話>
大東亜戦争に日本が敗れ全面降伏やむなきに至ったとき、平和条約を一方的に破って北方から雪崩れ込んできて非道の限りを尽くしたロシア軍。
すべてを捨てて内地に引き上げる列車の中に娼婦たちがいた。一般の女性たちからは蔑みの目で見られ、片隅で小さくなって固まっていた。その列車が止められロシア兵が乗り込んできた。
金品は強奪し、若い女とみると引きずり出して強姦する。そんなロシア兵がこの車両に近づいてきたとき、娼婦たちが言った。「あんたたちは隠れていなさい。ここは私等が相手するから。」そうして体を張った女たちこそ真の英雄だったと思う。
補足 伝説の女性俳人を追って
麦處さんにこの句に衝撃を受けたことを伝えたら、
「 鈴木しづ子 生誕90年 伝説の女性俳人を追って 」
という本をお貸しいただいた。
しかし私はまだそれを読むわけにいかなかった。
私は、麦處さんのカンナでの紹介によるこの一句で受けた衝撃を。それだけの形で、他の情報を入れずに自分の中で受け止めて自分の文章で整理したかった。それが終わるまではこの本は開かないと決めていたのだ。
何度も書きかけたがまとまらず、結局半年以上も時が過ぎてしまった。
ようやく、文章をとりあえずまとめることができて、この本を開くことができるようになった。
表紙の写真はあまり好きではないが、扉の写真のしづ子は確かに銀幕のスターといってもおかしくない美女である。
読み始めてみると、この本は、多数の人がしづ子について語るという形であり、正直言って勝手な思い入れが鬱陶しく、少し読んでやめてしまった。
(私の文もそれらに屋上屋を架すに過ぎないことに気づかされたのは忸怩たる思いであるが、)
しかし中で、わかったのがケリーのことである。
1)ケリー・クラッケ伍長のこと
昭和二四年か二五年に、しづ子はケリー・クラッケと出会い、暮らすことになる。
しかし、その暮らしは一年あまりしか続かず、二六年六月にケリーは朝鮮へ派兵され、しづ子と別れるのだ。
師に送った怒涛のような大量の句稿の中で、ケリーのことが語られている。
六月十九日付の句稿
朝鮮へ酒送るべく炎暑の葉
八月二四日付の句稿
好きことの電報来たる天の河
同じ句稿の中で、ケリーは朝鮮から佐世保に帰還する。
帰還せり秋暑の葉影地に敷きて
秋の葉に嬉しき泪こぼしけり
しかし、このときケリーは重症の麻薬患者になってしまっていた。
十一月二九日付の句稿
雪紛紛麻薬に狂う漢の眼
一瞬や麻薬に犯れし眼と認む
中毒の後遺症はひどく、懸命のしづ子の看護もむなしく、ケリーはアメリカ、テキサスの生家に帰されることになる。
霧の横浜港で二人は別れ、それが永遠の別れとなる。
十二月十九日付の句稿、
横浜に人と訣れし濃霧かな
離るるや港横浜霧濃き街
さよならケリーそして近づく降誕祭
火絶え絶えやるせなきものケリーの眼
そして、「傲然と・・・・」 の句は横浜で別れて五日後、十二月二四日のクリスマスイブの句稿の中の一句なのであった。
それからわずか一週間の後、しづ子の元にケリーの母親なる人から手紙が届く。
二七年一月二日の句稿
霧の洋渡り渡りきし訃報手に
霧五千海里ケリークラッケへだたり死す
急死なりと母なる人の書乾く
葉の上に滴りしもの愛の終止符
悲劇はこの世だけでいいスクリーンの白雪
そして、その後もケリーを偲ぶ痛切な句が続く。
ケリー関係の句は句稿の中に239句あり、そのほとんどが句集には未収録の句であった、いずれも推敲の跡がなく迸る思いをそのまま書き綴ったもののようであるという。
「傲然と・・」の句は「指環」所収なのかと思っていたがそうではなく、これも未収録の句稿の中なのであった。
ケリーは母親にしづ子のことを伝えていた。
母親から最愛の息子の大切な人 しづ子へ、ケリーの墓の写真や遺品が送られてくる。
あの時代の運命の中で二人は出会い、そして引き離されてしまったが、
私の浅薄な憶測などとは異なり、
しづ子とケリーはお互いに最後まで好きで好きでたまらなかったのだった。
それは私をこう言ってよいのかわからないがほっとさせた。
昭和二七年三月三十日 指環出版記念会に出席、
同年九月十五日付の句稿を最後にしづ子は姿を消す。
それにしても、戦争などなく、婚約者と結ばれて平和に暮らす生涯と、
ケリーと出会い引き離されたこの生涯と、
選べるとしたならしづ子はどちらを選ぶのだろう?
悲劇はスクリーンの中だけでよかったのに.
2017.1.22(了)
2)追補 しづ子の実像?
書中にノンフィクション「鈴木しづ子追跡:川村蘭太」という労作が入っており、これが面白かった。岐阜でしづ子が二階の一室を借りていた下宿先の大家さんの女性によれば、しづ子は背が高く品の良い物静かな美人であり、どこに出かけるでもなくひっそりとお忍びのように暮らし句作にふけっていたという。(昭和二六年から二七年にかけての一年三カ月の間にしづ子が送った句稿は七千句にのぼるというのだ。)その家が黒人兵連隊の溜まり場のようになっていて、美貌のダンサーしづ子目当てのMPたちが押しかけてきていた。しづ子はそんな兵隊達に声をかけられても静かに笑うだけで媚びを売るというようなところはなかった。そうした中で大家さんも驚くほどハンサムな兵隊が現れしづ子を見初めて急接近した、それがケリー・クラッケ伍長だった。ほどなくしづ子はこの家を出て、ほど近い所の家の離れの一軒家を借りて住むようになる。その家の子供だった人の話では。一・二週間に一度くらい黒人の兵隊さんが来ていたのを覚えているということである。
しづ子とクラッケの関係は後のケリーの母親とのエピソードでもわかるように、国際結婚をも考える恋人同士であり、金で買った客と娼婦というような関係では全くなかったようだ。しづ子を知る人の証言からは崩れた、墜ちた、というイメージは一切伝わってこない。岐阜に行った理由について、川村氏は、母が居ながら愛人をつくり、母が死ぬとすぐにその愛人と再婚してしまった父親への反発が家を出る原因になったのではないか。岐阜は母の故郷であり。しづ子がそこに母の墓を建立していたという事実を発見し、ダンサーになったのは母のお墓をつくる資金を得るためだったのではないかという説を記している。
パンパン俳句といって、一部からは好奇の目を向けられ、一部からは眉を顰められ無視されたしづ子であったが、娼婦という実態がほんとうにあったのか怪しくなってきた。
それはしづ子が偽悪ぶったフィクションだったのか。
しづ子に関しては、いまだに謎ばかりで、それが魅力にもなっているようである。確かなのは彼女の残した句稿のみ。
霧五千海里ケリークラッケへだたり死す
この句にこもったしづ子の慟哭の想いには胸塞がれる。
その後のしづ子の生活の中で幸せな時もあったことを祈るのみである。
急補 出会いと別れ
さらに書かなければいけないことができてしまった。
この原稿の誤字脱字を確認のため見直していて、「傲然と・・・」の句が詠まれた状況の部分を読み直したとき、愕然とこの句の意味が見えたのだ。
麦處さんのカンナでの紹介によれば、しづ子は各務原で黒人米兵と暮らしていたが最後には生き別れることに・・・
とあった。
そこで私は、結局二人はうまくいかなくなって別れることになったのだと思い、この句は二人の心が近づいた出会いの時のエピソードと想像し、冒頭のような情景を想い描いた。
句の意味は、死にたいと願うまでに絶望したしづ子が居て、
ケリーが一緒に死んでくれるなら私も死ねる
と言葉通りに解釈していたのだ。
しかし、事実は違った。二人は最後まで強く惹かれあっていながら、ケリーの病のために引き裂かれたのだった。
霧の横浜港でケリーと別れたしづ子は、岐阜の、どこを見てもケリーとのことが思い出されずにはいられない離れに戻り、一人ぼっちでいる。
この句はそのような中で詠まれたもの、出会いの時などではなく、最後の別れの後で書かれたものだったのだ。
そうだとするとあの句の意味はどうなるのか、私の中に何かが違うという落ち着かない坐りの悪い思いがのこっていた。それが再読したとき、はっと胸に落ちたのだ。
別れた時のケリーの病状は重く、しづ子はこのときケリーが死んでしまうこと、もう逢うことはできないのだという畏れを確信に近い形で持ってしまっていたのではないか。
逆だったのだ、死んでしまうのはケリーの方だったのだ。
であるならば、この句の意味は明らかだ。
ケリーが死んだら私も死ぬ
ケリーの故郷はテキサスの山の中、冬は雪に埋もれるという。
ここ岐阜でも、クリスマスを前に、雪が深々と降っていた。
ケリーへの句が終わった後の句稿には自死を願う句が多数みられるという。
句稿が途絶えて後のしづ子については全く情報がない。
北海道に渡って、別な筆名で俳句を投稿したなどといううわさもあったりし、全く信憑性がないわけでもないようだが、義経渡海伝説の如くである。
標べせよ跡無き浪に漕ぐ舟の行方も知らぬ八重の潮風 式子内親王
無明の海に漕ぎ出だし、大海に翻弄され離れ離れになった恋人たちの魂に平安あらんことを祈る。
しづ子てふ雪をも溶かす愛哀しも 海皇宗治 2017.1.27
(了)
2024.7.7 補筆修正