【224】ブルックナー交響曲第9番の第4楽章の補筆改訂版について:決定版はこんな所からやってきた。これならばいいかもしれない。騙されたと思って聴いて欲しいこの名演 2024.6.28
思いがけない出会いがあって、少々興奮しながらこの記事を書いています。
そのためちょっと長文になり過ぎてしまいました。
お時間の無い方はすべてすっ飛ばしていただいて結構ですので、目次6に紹介した演奏動画を見てみてください。
1 ブルックナー9番の第4楽章の補筆完成の試み
僕は別稿でも何度か書きましたが、高校一年の時にフルトヴェングラーのブルックナー9番に出合ったことからクラシック音楽の世界に入った人間で、それ以来半世紀以上に渡ってブルックナーを追い続けてきています。
その中で9番の第4楽章を補筆完成するという試みについても当然ながら並々ならぬ関心を寄せてきました。
補筆完成の歴史と状況については、下の動画にわかりやすく説明されており、その下のURLにはもっと詳細な説明があります。興味ある方は是非ご参照ください。
ブルックナーの交響曲第9番 第4楽章補筆完成の試み|Essay|東京都交響楽団 (tmso.or.jp)
簡単に言うと、第4楽章についてはブルックナーはその死の当日まで完成のための作業を続けていたこと、そしてすでにかなりの部分までが完成しており、その後の部分についても多くのスケッチが残されていたので、それを手掛かりに補筆するという試みがなされてきたということなのです。
悲劇であったのはブルックナーが生涯独身で近親者もおらず財産保全の処置が取られなかったことでした。
死後入ってきた葬儀屋などが部屋にあった沢山の手描きの楽譜などを勝手に持ち出して、売ってしまっていたのです。
そのようにして失われた楽譜の捜索は今も続けられているのですが、バラバラの楽譜がヨーロッパだけでなくアメリカでも発見されるなど、世界に散逸してしまっておりすでに捨てられてしまったものもあるのだろうという状況で中々進まないようなのです。
盗まれた名画などと違って、もともと存在するのかどうかも分かっていないものを探すのですから雲をつかむような果てしない作業ですよね。
そうしたスケッチなどの断片は、新しく見つかるたびに研究チームがそれを反映した改訂を行うなど、第4楽章の補筆修復作業はリアルタイムで続けられているそうです。
けれど、さらに大きな問題なのは、最終のコーダについてはまだ筆が及んでいなかったために何も資料が残っていないということなのです。
せめて、ブルックナーがこの大曲をどのように締めくくろうとしていたのかという構想を知ることができればよかったのですが、それは何も形として残されておらず、友人、知人がたしかこのように言っていたなどという、うろ覚えの断片が2-3ある程度なのです。
したがって、このコーダ部分については各研究者が様々な推測を行って創作するしかないという状況に置かれているのです。
このような厳しい状況下ではありますが、補筆完成の試みは様々な人たちが熱く取り組んでおり、アイヒホルン、インバル、ロジェストヴェンスキーなどがそれらを演奏してCD化しており、そしてサイモン・ラトルが2011年までの改訂結果を集大成した改訂版で2012年に演奏したものが大きな話題になるに及んで、これが決定版になって落ち付くのかとも思われたのですが、実際は全く治まらず、補筆改訂の試みは益々活発に行われ、まさに群雄割拠の戦国時代の様相を呈しているという感じなのです。
2 ブルックナー9番に第4楽章を追加する意味はあるのか!
僕は、前述のアイヒホルンからラトルに至る補筆第4楽章を聴いて、正直言って、止めてくれと思いました。
その話に入る前に、第一楽章のコーダを確認してみましょう。
アバード、カラヤン、バーンスタインの3者のコーダの競演です。
アバードもカラヤンも悪くないけど、私はバーンスタイン/ウィーンフィルの演奏が圧倒的に好きです。
バーンスタインの熱に巻き込まれてウィーンフィルがその力を出し尽くして物凄いコーダになっています。
演奏がこれだけ凄いと音楽のもの凄さがようやく伝わることができます。
第4楽章のコーダはこの物凄い第一楽章と、第二楽章、そして美しすぎる第三楽章をまとめて受け止め切らねばならないのです。
そんなことが果たして可能なのでしょうか?
ブルックナー自身がそれを探して苦悩していたのではないでしょうか。
ラトル氏までの補筆改訂版の演奏のどれを聴いても、とてもそんなパワーは持った音楽になっているとは感じられないのでした。
ちなみにサイモン・ラトルさんの第4楽章を聴いてみましょう。
オケはベルリンフィルです。
どう感じたでしょうか。
コーダの部分ですが、軽いのです。緊張感がなく空疎で冗長で、前の三楽章と無関係な切り離された音楽になってしまっていて、
こんなので第9番を締めくくられてたまるものかと思いました。
もしこれがブルックナーの作った音楽そのものだったとしたら、これを公開しなかったことは正解だったと思うのです。
もう一つ問題があるのは、音楽自体の問題と演奏の問題が切り離せないという部分があることです。
僕は念のためにラトルさんの第1楽章、そしてコーダの演奏を確認しましたが、これが軽いのです。
軽くて緊張感が無くて空疎で冗長なのです。
ラトルさんはブルックナー指揮者ではないと思いました。
才人ラトルさんはバーンスタインみたいに全身全霊でのめり込むということをしないのです。なりふり構わずということがスタイルとしてできないのでしょうね。すごく客観的に外見的に綺麗に演奏するのです。それが適する音楽もあるのでしょうが、それではブルックナーの音楽の凄さと高みに踏み込むことはできないだろう、雲泥の差だと、私はそう思うのです。
*すみません。これはあくまで私見であって、色々なスタイルの演奏とそれを好きな人はいてよいのですからラトルファンの皆さま、お気を悪くしないでください。
けれど、そうした演奏の問題を割り引いたとしても、どの演奏の4楽章もやはり満足できるものではありませんでした。
僕は、当時、補筆完成には懐疑的でした。
いくら途中までは完成しているといっても、ブルックナー自身が納得して筆を置いたわけではないものを出してしまうことがよいことなのか?
まして空白のコーダをどうできるというのか。
第3楽章までで余白を残して終わってそれでいいではないかと、僕はフルトヴェングラーのあの美しい第3楽章の演奏の最後の音がはるか彼方に消えてゆくのを聴くたびに、これ以上何を望む必要があるのかと思っていました。
3 補筆の現状
そう思いながらも、私は第4楽章の演奏をユーチューブで見つけるたびに、そのショートカットを貯めておくということをしていました。
そして2日前に、ふとその気になって、そのボックスを開いて、その中身を見たのです。
驚くことに、そんな完全版第4楽章は十数個もあったのです。
これらを順に聴いていく中でわかったことはは、前半の部分は確かにどれも大体同じ楽譜なのです。
それが中間を過ぎるとけっこうばらばらになってきて、最後の部分になるとそれぞれが全くちがってくるのでした。
まさにブルックナーの楽譜の状況を反映したことになっているんだということが実感できました。
そして、前半のほぼ一致している部分の音楽は記憶にあったものより悪くなく、結構いけるかもなと思いながら聴くことができました。
けれど後半のフィナーレの部分においてはどれも今一なのでした。
空白のコーダの部分をどうするかについて思想が入ってくると思うのです。
ブルックナーはこの音楽をどのように構想したのかという問題です。
そのことに触れず、ただなんとなくそれらしく埋めましたではすまないのです。
そういう意味でどれも弱いのでした。
4 第4楽章はどうあるべきなのか?
レミ・バローさんはブルックナーの音楽は史上唯一の時間の概念を超越した音楽だと言っています。
そしてまた、バローさんはブルックナーの9番はそれまでの8番までと全く違うと言っています。
それがどういうことなのか、バローさんの演奏を聴いていると分かるような気がするのは、ブルックナーの音楽の中に流れている時間は、人間の時間ではなく、風がはるか遠くから吹いてきてはるか彼方まで吹き渡っていくような、雲の動きや、日が昇り日が沈むような、海の潮が満ち引きするような、そんな始まりも終わりもない大自然の悠久の時の流れであるように思えてくるのです。
けれど、9番はそうではない、はっきりした意志、ドラマがあるのではないか。その点が違うのだということをバローさんは感じていたのではないかと僕には思えています。
バローさんの9番が僕にとって物足りなく感じるのは、そのドラマ性の問題であったように思いました。8番までのバローさんのアプローチが9番においては必ずしも成功していない、バーンスタインの行き方の方が正しいと、そのように感じられるのです。
バーンスタインさんが7,8番や3,4,5番をどのように演奏したのか、それを聴けないことが残念でなりません。
5 ブルックナー交響曲第9番の構成
僕が9番を聴いて頭の中に思い描くのはこんなドラマです。
第一楽章 世界の生成と発展そして滅び
原始の霧が渦巻く中から世界が生まれ、生成発展してゆく、しかしその誕生の際に滅びの種のようなものが紛れ込んでいた。世界の発展の陰で滅びの種子も密かに発芽し大きく成り世界を覆い、そして世界は黙示録の如く炎の中に崩れ落ちてゆく。
第二楽章 巨神兵たちのダンス
世界の廃墟の上で、七日間で世界を焼き尽くした巨神兵達が奇怪なダンスを踊る。
ダンスを終え使命を果たした巨神兵は動きを止め永い眠りにつく。
第三楽章 祈りと癒し、浄化
焼き尽くされ、汚染されつくした大地に雨が降り始める、何千年か何万年か、長い年月をかけて、世界は少しずつ浄化されてゆく。
*ここまで、なぜかナウシカの世界観が僕の頭の中で9番と結びついてしまっているようなのです。
そうなると第4楽章はどうなるのでしょうか。
第四楽章 再生と祝福
浄化された大地から新しい世界が再び生まれる。
ブルックナーが書きたかったのはこれでしかないのではないでしょうか。
実はもう20年以上前のことになりますが、誰かのブルックナー7番をかけながら、西伊豆の海沿いの国道136号線を車を走らせて南下していたことがありました。
崖の上を通る道からは、大きく海が見晴らせ、その時夕日はその海に落ちようとしていました。
そんな壮大な風景の中で、僕はブルックナーの9番のフィナーレについてなんとなく考え続けていました。
そのとき、降ってきたのです。
第一楽章のフィナーレが再現し、それが長調に転調し輝かしく鳴り渡るのをはっきりと聴いたような気がしたのです。
大袈裟ですけど啓示を受けたような気がしたのでした。
僕は、この曲をしめくくろうとしたら、第一楽章のあの滅びのフィナーレを再現し、それを祝福に変えて終わる、それしか方法はないと思っているのです。
そのために具体的にどうすればよいのか、楽譜も読めない私にはどうする術もないのですが、いつか誰かがそれをやってくれたらと心の中で願っています。
6 そして決定版は思いがけないとことから現れた!
十数個の第4楽章を聴いていく中で、ふと、あれ、これブルックナーの音がしていると思ったものがあったのです。
そこで、それを取り分けておいて、他の物を全てとりあえず聴いたのです。
正直、他のものは聴いていてブルックナーの音がしてこず、眠くなって困るのでした。
次の日、改めて取り分けておいたその演奏の第4楽章を聴いてみました。
興奮冷めやらないのですが、凄い演奏、凄い音楽がそこにありました。
その演奏は、アルフォンソ・スカラノ指揮のタイ・フィルハーモニー管弦楽団のものだったのです。
アルフォンソ・スカラノさん、初めて聞く名前でした。
そしてタイ・フィルハーモニー、あの東南アジアのタイのオーケストラです。失礼ながら、ブルックナーとははるかに遠いイメージを持っていました。
けれど、聴こえてくるのは正真正銘のブルックナーの音だったのです。
生きて血の通った前半、そして後半に入り、コーダの素晴らしさ、瞬間第一楽章の一部が再現されるシーンでは鳥肌が立ちました。
どういう経緯で誰が作ったコーダなのかわかりませんが、輝かしいフィナーレはこればなら有ってよいと初めて納得できました。
第4楽章を聴いた後、すぐに引き続いて第一楽章から通しで聴き直しました。
これは素晴らしいブルックナーです。
第一楽章もブルックナーの巨大な世界が構築され巨大な滅びが現出します。第2楽章は特に面白かった、オケが乗りに乗って演奏しているのです。第3楽章は欲を言うともうちょっと静けさが欲しかったけれど及第点、第1-3楽章までだけをとっても、十二分に世界のどのオケとも渡り合える演奏だと僕は思います。そして第4楽章は違和感なく前の楽章を受け止めていた。
驚きました。
ブルックナーの場合、往々にしてこういう奇跡が起こります。
朝比奈/大阪フィルのザンクトフロリアンライブ、バローさんの平均年齢17歳の青少年オケによる8番、チェリビダッケ/シュトゥットガルトの4番(晩年のチェリビダッケは嫌いです、この時代のチェリがいい)、バーンスタイン/ウィーンもそう、ヨッフム/コンセルトヘボウの来日時の7番ライブなど、ほんとうに一期一会の条件がそろい、楽団員の心が一つになり、指揮者を全面的に信頼し、一人一人がブルックナーの音楽を敬愛し共感し、自発的な演奏をしそれが溶け合う時に実力以上の奇蹟の名演が生まれることがある。
とにかく、騙されたと思って聴いてみてください。
アルフォンソ・スカラノさん指揮、タイ・フィルハーモニー管弦楽団の第4楽章付きコンプリート版のブルックナー交響曲第9番です。
演奏会場はプリンス・マヒドン・ホール、2022年3月26日の演奏でした。
2022年というとまだコロナ真っ盛りだったのでしょうか。弦の奏者は全員マスク、吹奏楽の奏者は一人ずつ仕切り板が立てられています。
会場はすごく天井が高く、ブルックナーの音が響くのにふさわしい堂々としたホールでした。
ブルックナーの音楽がこうして世界に根を拡げていることには大きな感銘を受けます。
*補足:この演奏はRoberto Ferrazzaという方による補筆バージョンだという事を教えていただきました。
新芽 取亜 (symmetria)様からコメントをいただき、この演奏がRoberto Ferrazzaという方による新しい補筆バージョンだと教えていただきましたので、補足させていただきます。
改めて、ユーチューブのこの演奏へのコメントを読んでみたら、確かにそのことが書いてありました。
この演奏に寄せられているコメントを読んでみると、今までの10種以上の補筆版が出た中で、これがベストバージョンだ。コーダが素晴らしい。オケが素晴らしい。正直、タイにこんな素晴らしいオーケストラがあるとは思いませんでした等々、長文での熱い賛辞がいくつも贈られており、僕と同じ感想を持った人が何人もいたことに驚き、かつ心強く思いました。
アトムさまからは日本における補筆版の新しい動きについてコメントを頂きました。
こうしたコメントを頂くのが一番うれしいことです。有難うございました。
7 あとがき
いつにもまして長文になってしまい申しわけありません。
もし最後までお付き合いいただけたなら望外の幸せというものであります。
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