波の音が聴こえる
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波の音が聴こえる
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「ねえねえ」
誰もいない海岸のはずなのに、いつの間にか隣に女の子が一人立っていた。周りを見渡してみても、親らしき人物どころか、人がいる気配すらまったく感じられない。
「…どうしたの?」
「おねえちゃん、なにしてるの?」
私はおもむろに視線を海の方に向ける。
「んー、海を見ているよ」
「海?」
そう言って、女の子も私の視線を辿り、海の方を見た。
「きりでなにも見えないよ」
「そうだね、何も見えないね」
数メートル先までしか視界で捉えられないほどに、霧が立ち込めていた。砂浜で同じ動きを繰り返す青黒い波が見えるだけだった。
「いっしょに遊ぶ?」
私は視線を女の子に戻す。女の子の瞳はこちらを真っ直ぐに見つめている。
「いいよ」
「じゃ、お城つくろ!」
と言いながら、女の子はその場でしゃがみ込み、手で砂を真剣にほり始めた。私もポケットから手を出し、一緒に砂をほる。
「おねえちゃんひとりでさみしくないの?」
「うーん、どうかな。あなたは?ひとりで寂しくない?」
「ふつう!ひとりでも遊べるし、誰かいたら、その人とお友だちになって、いっしょに遊ぶ。わたしがさそったら、みんな遊んでくれるよ!」
「そうか、すごいね」
「毎回あたらしいお友だちができるから、お友だちがいっぱいいるの!だからここはわたしのりょうちなんだよ!」
「あら、領主様だったの。勝手に入ってしまってごめんなさい」
「いいの!おねえちゃんはもうお友だちだから、いいの」
「そう?ありがとう」
そうこう話しているうちに、穴をほって出てきた砂が溜まってきた。
「よし!いよいよお城だね。おねえちゃんお城つくれる?」
「どうかな、自信ないや」
「わたし自信たくさんもってるから、半分くらいあげてもいいよ」
「ありがとう。でも、あなたが持ってて」
二人でほった穴の両端から砂を盛り、固めながら高くしていく。
「むずかしいね」
「水が多すぎても、少なすぎても、形が保てないからね」
「あと心をこめてつくらないとね」
やっとのことで、最低限倒れないよう均衡がとれた橋のようなものが積み上がった。想像していたものと程遠いからか、眉を曲げた女の子はどこか自分の作品を吟味する芸術家のようで、思わず少し笑ってしまった。
「んー。あ、なんかあるよ?」
頭を地面につけ、砂で作った穴を覗きながら女の子にそう話しかけた。
「なになにー」
案の定興味津々に頭をこっちにくっつけてきたので、指で人に似せた形を作って、穴の向こうでうねうねと歩かせてみた。
「あらお嬢さん、ご機嫌よう」
甲高い声でそう言って、指で滑稽に踊ってみせると、女の子はケラケラ笑った。案外ウケが良いようでほっとした。つられて自分もなんだか可笑しくて笑ってしまう。
軽快な笑い声は霧に吸い込まれていくようで、それでいて波に乗って返されてくるようだった。
指が疲れてきてしまい、笑い声がおさまっていく中、二人でボーッと、穴の向こうを眺めた。
「おねえちゃん、なにみてんの」
「んー、海を見てるよ」
「それさっきも聞いた!」
「さっきも同じこと言ってたね」
「次は宝さがししよ!」
砂を払いながら起き上がる女の子を眺めながら、子どもは切り替えがはやいなと考える。お城はもう良いのだろうかと思いつつ、宝探しとはなんだろうと女の子の行動を伺う。
女の子は海沿いから少し離れたところまで走って行き、地面を覗き込むように歩きはじめた。なるほど、貝殻探しだろうか。近くまで寄って行き、自分も身を屈め、地面の石やら貝殻を目で探す。
「みてこれ」
前を見ると、幻想的なグラデーションが小さい貝殻の内側に収められていた。
「綺麗な色だね」
「でしょー!」
「じゃこれは?」
そういって、握っていた手を広げ、その上に乗っている淡い紫色の貝殻のかけらを見せた。
「きれい!わたし紫すき!」
「お姉ちゃんも紫好き」
それから、周りが丸くなり、表面がざらざらしている緑色の瓶の破片や、まばら模様の石、白くて歪な形をした真珠のようなものを、二人で探しては見せ合いっこをした。
「これはなんの羽?」
声のする方を見ると、女の子は屈んだまま、石と貝殻の間に挟まれ、風で少し靡いている羽毛をじっと見つめているようだった。
「カモメか鳩の羽毛とかかな」
近くに寄りながらそう答えたが、女の子から言葉が返ってこないので、彼女の顔を横から覗いてみた。
「あの日は、羽毛がまっていたの」
…そう、あの日は羽毛が舞っていた。
小さな頭にとって、天国といえば天使だからか、天使の羽毛が舞っていた。今思えば、地獄の方が相応しいとまでは言わないが、天国に行けたかどうか怪しいところだ。
「…そうね、それ以外のすべてが真実だった」
ガラスと死体。耳を劈く叫びと引き裂かれた距離。群衆と真っ白い壁。そしてしきりに空を舞う羽。
これだけだった。これらだけが私の、そして彼女が持ちうる序章のすべてだった。人生の幕開けだった。
「ゆめじゃないの?」
「夢と真実の見分け方なんて誰にもわからないのさ」
「羽がまってて…きれいだった」
返す言葉が見つからなくて、膝をつき、下を向いたまんまの女の子をそっと抱きしめた。
「わたしは大丈夫だよ」
「もう泣き終わったってこと?」
「あ!子どもだと思ってからかってるの?あの絵ほんとうにこわかったんだから…」
「そうね、あの絵は確かに怖かった」
そう。男か女か、男と女か、羊か、沈む太陽か。それとも子供一人だとどうしても上がらないワンピースのチャックなのか。どれが悪かったのかは分からないけど、すべてが悪かったのかもしれないし、とにかく怖い絵だった。
「他は?話してご覧」
そう言いながら、背中に回された女の子の腕の力が少し強くなるのを感じた。
「だっておねえちゃん知ってるんでしょ?なにもかも」
「うん。知ってるよ、何もかも。ほんとうに悲しいことは何一つ口に出して言えないことも」
「じゃ聞かないでよね」
「そうだね、ごめんね」
「あやまられるのも好きじゃない」
「うん、私も好きじゃない」
口に出して言えることなんて、もうほとんどどうでもよくなった物事で、ほんとうに悲しいことなんて、何一つ吐き出せない。
蝶々。
黒い蝶々が私の横を通り、女の子の頭上で舞う。
「あ!きてくれたの」
女の子は蝶々を目で追いながら、親しげに話しかける。私は女の子の体をそっと離す。
「じゃあ、わたしはそろそろ帰るね」
「わかった」
「ばいばい、おねえちゃん」
「ばいばい」
霧を抜けた先。これから悪夢のような現実か、現実のような悪夢か、彼女を待っている。呼び止めようにも声が出ず、私はただただ、少しずつ霞んでいく影を見つめるだけだった。そして一つだった影が二つとなり、大きい影と小さい影の手は手を取り、ついには見えなくなってしまった。きれいさっぱり消えてしまった。まるでこの霧の立ち込める海岸には最初から私ひとりしかいなかったかのように。
彼らが行く先を、私は知っている。きっと葉が生い茂った大きな木のもとへ行き、ある女性の訪れを待つのだろう。
私には彼女を呼び止められない。どうすればいいのかわからないし、どうにもできない。彼女はあの女性の元へかえるべきなのだから。
目の前には真っ白い霧が深まるばかりだった。
海の方に向き直る。
盛り上がった砂は波にさらわれ、穴もじきに埋まるだろう。すべては元通りになる。すべてが流れて行き、すべてが戻って来る。
波の音が聴こえる。
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