桜の代償 #6 【前編】
婦警からの言伝で私たち二人は何故か警視総監室に呼び出された。
警視総監室は文字通り、警視庁において最高指揮官である警視総監が在中する部屋である。警視庁に勤めている人間でさえも働いているうちにその部屋に赴くのは数える程度しかない。ましてや所轄の刑事や庁に勤務していない警察官は何か表彰されるなどしない限り滅多に足を踏み入れることのない場所である。漆喰のような光沢感のある木製の扉を叩くと、妙に響くノック音を合図に低く貫禄の効いた声で「入りなさい」と中から一言。
「失礼します、お呼びでしょうか」中の重たい扉越しでもひしひしと伝わり、自然と目の前にある扉も木製ではなくまるで巨大な鉄でできるんではないかと錯覚するほどに重く感じる。そんな緊張を一心に受けながら2人は中へと足を踏み入れた。
警視庁に存在するどの部屋よりも高級感漂わせる室内は色味が全て扉と同じような材質で統一されており、どこか妙に落ち着かない。
「ようやく来たか」来客用のソファには頭を抱えた様子の警部が座り2人が来た途端詰め寄ると耳元で小さく「一体何をやらかしたんだ」と聞こえたか分からないぐらいの小さな声で呟くように言って総監室を出て行った。
ブラインド越しに外を眺める総監の背中と数十秒睨めっこしていると急に踵を返し渋い表情の総監と改めて対峙した。
時々警視庁が行うイベントで総監が直々に挨拶など赴いているらしいが常に事件が舞い込んでくる一課の2人はそういったイベントに呼ばれることは滅多になく、実際総監の顔をまともにみたのもかなり久々だった。
密室の慣れない空気感の中で警視庁の頭ともよべる存在と顔を見合わせることがどんなに心を緊張の縄で締め付けるか、私にとっては初めての経験だった。
「君たちには折り入って言わなければならないことがある」
静寂が続く室内雰囲気を破ったのは総監だった。
「折り入ってとはどう言うことですか?」
「君たち一課か今取り扱っている100円玉殺人に関してだが、君たち2人にはこの事件の捜査から外れてもらう」
2人は耳を疑った。
理由も分からず突きつけられた障壁があまりにも意想外で一瞬時間が止まったかのような長い時間の中に取り残されてしまったように立ち尽くしてしまった。次の一瞬でようやく状況を理解した私は事の概要の説明を総監に求めた。納得のいく理由とその判断に至った経緯を知りたいためだった。だが総監はこれは決定事項だと言わんばかりに頑として言葉を表す事はなく2人の言葉を聞き入れる事もなかった。
「戻るぞ」警部補は軽く頭を下げ部屋を出ていこうと背を向けた。
「そんな、、、」
「詳しい処分は後に報告する。それまでは自宅待機とする」突きつけられる現実に私は開いた口が塞がらず反論も言い出せないまま苦虫を噛み潰す思いで首を縦に振った。出ていこうとした直前、扉のハンドルに手をかけた警部補は立ち止まった。
「総監、最後に一つ聞いていいですか?」
「なんだ?言ってみなさい」
「真実とはなんだと思いますか?」
「愚問だ、目の前にあるものこそ真実だ」
「なるほど、よくわかりました」
静かな総監室に響き渡る閉鎖音に密かに笑みを溢す。
日も昇らない朝と夜の狭間の時間、まだ世界が薄暗闇に包まれているような中で私は何故か、ついいつもの癖で目を覚ました。警視総監から突然の命令で現場を離れ、自宅謹慎を余儀なくされた。本来ならばこんな時間に起きずとも休日のように昼まで眠りについていても誰にも怒られる事はない。だが昨日から芽生える心の中のモヤモヤがうざいくらいに私の中で蠢いている。
空腹になると何かを食べたくなるように、
喉が渇くと水を飲みたくなるように、
俺はそのモヤモヤを取り払わんとするために服を着替えようとした最中だった。
突然ベットの横のテーブルに置いていた携帯電話が大きな着信音が鳴り響く。その音に驚いた私は寝ぼけていたのか意識がハッとする。慌ててテーブルの上から手に取り、何事かと画面を確認すると警部補からのメッセージが届いていた。
外も次第に明るさを取り戻しつつあるこんな時間に、自宅謹慎を言い渡されているこんな時になんだろうか?
そんなことを考えるも、多分私の勘は当たっている。
「下まで降りてこい」
短調な一言だけのメッセージが全てを物語っていた。私はすぐさまいつものスーツに袖を通し急いで警部補の元へ向かった。警察車両は使えないために自宅から自車を運転しやってきた警部補は朝から優雅に缶コーヒーを飲みながら待っていた。降りてきた私を前にもう一個持っていた缶コーヒーを投げ渡し、車に乗るように合図した。見るからに古そうな外観をしている車が警部補の車に対する渋さを表すが、車内はすっかり染み込んでしまったタバコの残り香が若干匂う。そんな私を見兼ねてか今時古風なハンドル式の開閉窓を開けて風を通し空気の入れ替えをしてくれた。
「早速だがこれから捜査に向かうぞ」
「え?でも私たち今謹慎中ですよ?」
「だからなんだ?逃した獲物はあまりにも強大で逃げ足も早い。ここで放っとけば事件はまた闇の中だ」
「でも捜査権限がない今、勝手に出たら、、、」
「それ相当な処分が下るだろうな、クビは免れん」
警部補の思い切りの良さは捜査に関してはある意味良い効果をもたらすこともあるが、こういう自分や周りの保身を時々考えられなくなるところは正直言ってかなり困る。しかし、それでも警部補の言ってる言葉には一理ある。金さえあれば海外へ逃亡されてしまえば我々日本の警察は手も足も出ない。無差別殺人と100円玉殺人の関連性が可能性としてある今、一度に二つの事件を解決できれば警部補だけでも復帰させられるかもしれない。
半分残していた缶コーヒーを一気に飲み干し、夜明けともに気持ちも吹っ切れた。
「わかりました、行きましょう。例えこれでクビになっても警部補の首だけは拾いますよ」
「バカやろ、何一丁前なこと言ってんだ」
背中で始まりの太陽の眩い期待をひしひしと感じながら、心の奥底で眠る感情をなんとか押し殺し私は一警察官、一刑事として再び捜査に向かう。
最後は自分自身の手で終わらせるために。