相互文化的コミュニケーション能力とふりかえり
昨日の読書会
学生たちとの読書会で,バイラムの『相互文化的能力を育む外国語教育』を読んでいます。毎週担当を決めてレジュメを作成します。今回は,年明けから参加し始めた学部1年の留学生Aさんが担当でした。
この読書会,基本的には,院生または院に進学したい学部4年生が参加しているんですが,ゆるい読書会ということもあり,Aさんがどうしても参加したいということでしたので,じゃあどうぞどうぞと参加を許可しました。Aさんが母国ですでに一度大学を卒業しているというのも,許可をした理由でした。
読書会では,担当する学生が毎回レジュメを準備して,事前にLINEグループで共有することになっているんですが,今回はそれがありませんでした。それで読書会開始時に,Aさんが「すみません,レジュメできているけどまだ共有していませんでした」と言って,LINEグループでレジュメを共有をしました。
フォローになってない?
そこで僕は,なんか言った方がいいかなあと,けっこう素朴に考えて,
はじめての担当だし,この本,難しいからちょっと大変だったと思うんだよね
と一言フォローを入れました。
実際,他の学生たちも,それぞれ担当のところで,読んでもよくわからない,難しいと毎回言っていました。
ところが,Aさんは,僕の上記のフォロー(のつもり)に対して
いえ,そういう問題ではなくて,私は内容はわかりましたが,単に私がまじめじゃなくて,ギリギリになっただけなんです,すみませんでした。
と返してきました。
ふむ,これはちょっとズレちゃったなと僕は思いました。そして,ちょうど今回読む章に「相互文化的コミュニケーション能力」の定義に関する記述があって,そこには以下のように書いてあったことを思い出しました。
自分自身の文化について信じていることと他の文化について信じられないことに関して,あえて一時的に価値判断を保留しようとする態度が重要である(バイラム, 2015: 185)
うん,これはちょうどいい。今の僕らのやりとりを,相互文化的コミュニケーション能力の観点から考えたらどうなるか,ディスカッションしようよ,となりました。
自分を語ること
みんなでディスカッションしながら,Aさんと僕は,どのように考えたか,自己開示をしていきました。僕自身は,このやりとりの中で,自分自身の見え方が変化していくことが感じられたので,その変化を書いてみます。
第一段階
僕は,レジュメが間に合わなかった学生に対してフォローをしたつもりだったけど,それは相手にとってはもしかしたら余計なことだったかもしれない。配慮しているつもりが,実は,「1年生」で「留学生」であることから,無意識の前提として「他の学生のようにはできないだろう」という意識を持っていたかもしれない。これはよくない予断だったなあ。
第二段階
いやちょっと待て,これは,Aさんにとってだけじゃなく,場の構成という面からもよくないかもと,今話しながらなんとなく気づいてきた。僕は,この場に教員として関わっているから,この場をより安全な場にする必要があると思っている。そのために配慮したつもりだった。でも,僕の素朴な一言は,他のメンバーも含めたそこに関わるみんなで相互に尊重・配慮するという機会を奪い,僕がある意味勝手に場の流れを作ってしまっているんじゃないか。これって,意識してないけどパターナリズム(父性主義)的な場を作ってしまってるかも。もう少し踏み込んで言うと,「僕の庇護の元にいれば大丈夫だよ」ということをつくってしまっているのではないかと気づき,ちょっと怖くなる。
第三段階
パターナリズムによって,本質的な部分で自律性や主体性を削いでいるのではないか。そういえば,僕は,ゼミでもこういう助け舟をときどき出すことがある。もしかしたらそれは,自律的にやっている人を勇気づけることにはならず,実は,自律的にできてない人たちを無用に救うことになり,ひいては,自律的活動にみんなが向かわないような空気を作り出していたのではないか。
第四段階
とはいえ,心理的安全性というのはとても大事で,各々が責任を果たしつつも,うまくいかないときに弱みを開示できない,相談ができないという場はあんまり好きじゃないなあと思う。だから,メンバー同士で安全な場にしなきゃいけないし,僕もそこのメンバーだから,手放すというのも違うのかな。ということで,僕は教員として,何をどこまでどのくらい手放せばいいのか,というここ2年ずっと続いている「いつもの問い」に戻っちゃった。
伴走者
読書会には,春から院に進学する4年のゼミ生Bさんも参加しています。僕が,第三段階でゼミ活動について自己開示をしているときに,Bさんが一言
私,ゼミやってて,そういうふうに感じることありました。
と発言。うーん,なるほど,グサッ(笑)。
ちょうど今,今年度のゼミの取り組みに関するふりかえりを改めて書いていて,来年度どうしようかな〜と考えているところだったので,さっそくBさんにお願いして時間をつくってもらい,来週,僕自身のふりかえりを深めるために「伴走」してもらうことになりました。
こういうズレたやりとりが発生した時に,そこから「ん?ちょっと待てよ」と感じ,いったん立ち止まってふりかえって考えてみる。それが「相互文化的コミュニケーション能力」の一つの重要な要素だと思います。外国人とのコミュニケーション,外国語でのコミュニケーションが,この社会をよくしていく可能性を持っているのは,こういう気づきが生まれるようなズレがたくさん出てくるからだろうなと思います(この最後の1パラグラフがちょっと教条的なんだけど,これを書かずにいられないところが,まだまだ… 笑)。
参考文献
バイラム,マイケル(2015)細川英雄監修,山田悦子・古村由美子訳『相互文化的能力を育む外国語教育:グローバル時代の市民性形成をめざして』大修館書店
原典は Byram, M.(2008)From Foreign Language Education to Education for Intercultural Citizenship: Essays and Reflections. Multilingual Matters.
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