無辺の大地を想え
浄土教が見出した自己の在り方として、「罪業の大地」と言われるが(證空『往生礼讃自筆鈔』巻五)、それは無辺の大地を想わねばならない。
『アンジャリ』(第三十六号)に寄稿された飯田一史の指摘は、自己を問う上で大きな問題提起であると思う。「罪人である、悪人である、凡夫であると自らにレッテルを貼ることを免罪符にして思考停止をするな、自分がダメでどうしようもないと最初から決めつけて生きるのは現実から目を閉ざすラクな道、「逃げ」である、ということだ」(「「すべて私が悪い」という「逃げ」を拭う――『聲の形』論」)と飯田は警鐘を鳴らす。
浄土教(とりわけ真宗や西山教学)の中で語られる「私」は悪から離れ得ぬ「煩悩具足の凡夫」であることが強調されてきたが、飯田の言うようなレッテルを貼ることは何がラクなのか。飯田はこの直前に、『聲の形』に即しながら「個別的具体的な、生身の人間関係や出来事に向き合うことを避けている」と書くが、こうした「私」(や他人)のめんどくさい具体性を捨象して、自らが描く「浄土教」、「煩悩具足の凡夫である私」という物語に閉じこもる姿勢は確かに逃げであろう。
しかし、自己の存在を覚知させる弥陀の本願とは、西山義祖・證空は「今仏願の不思議なる事を知る時、無始已来の諸悪悉く是を悟る事を釈し顕すなり」(『散善義自筆鈔』巻一)とするが、凡夫の事情とは無関係に「悉く」自己全体を知らせるのが他力である。「諸悪」とあるが、仏陀、覚者から見れば人は平等に有限で悪を離れ得ぬ存在である。自己を含めて誰かを特権的な悪人に仕立てて満足することなど本来はできないはずである。
レッテルを貼りながら生きる道は確かに「ラク」なのであろうが、それは「ラク」になりたい在り方なのであり、常にその背後にあるもっと大きな存在の影に怯えることの裏返しではないだろうか。自分が思い描いた他人、自分が隠したい自己、凡夫がイメージする凡夫にメスを入れ、無辺な存在全体を照らしていくのが無限なるもののはたらきではないかと思う。これが「生活」という個別具体的な事件を生きる場で発揮されないのであれば、それは何か自力の物語に埋没して自己そのものを置き去りにしているのだ。
悉く罪業を知る、とは誰も知らない自己を生きるという孤独な旅路に等しい。しかしそこにしか私はいない。
※『añjali』37号(親鸞仏教センター、2019)より転載。
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