中村玲太

中村玲太

最近の記事

願え

 命令文でしか表現できない意志のようなものがある。「急げ悲しみ 翼に変われ/急げ傷跡 羅針盤になれ」とは、名曲、中島みゆき『銀の龍の背に乗って』の一節である。傷跡そのものが羅針盤になるのであり、悲しみや傷跡が消えることを望んだ言葉ではないだろう。曲中には、人間の皮膚が傷つきやすい柔らかなものでしかないのは、「人が人の傷みを聴くためだ」ともしている。非力な自分にはどうしたって消えない悲しみや弱さが、むしろ進むべき一つの方角を示さんことを切に命じているのである。龍のようにはまだ飛

    • 静かなる学問的情熱を尋ねて

       閉塞するような小さな自己を離れ、広い世界の真理を知的に探究する。そのようなものとして学問への憧れが確かにあった。静かに、しかし情熱的に知への追及を止めない学問の世界を描いた、森博嗣「キシマ先生の静かな生活」(『まどろみ消去』、講談社文庫)にもだいぶ影響されている。そして約十年前、学問的に仏教を学ぶことを選択した。  学問的に仏教を学んでいくと、自己を離れて、単なる知的欲求に止まることを戒める数々の仏者の言葉と出あうこととなる。自己を離れることが問題になるのが仏教であった。

      • 現在に“生まれる”往生思想について

        「親鸞仏教センター研究員と学ぶ公開講座2022」報告記事 ※12月講座「往生とは何か」 中村担当「現在に“生まれる”往生思想について」  本講座では、「往生」を現生の事実として考究する西山派祖・證空(1177-1247)の往生思想を中心に検討を進めた。特に證空にとっての「(凡夫の)往生」とは、「(弥陀の)成仏」と密接な連関があり、「成仏」と「往生」は同時であるとされる。弥陀が成仏した時に、すでに往生が完成されているのだと證空は強調する。ただ注意すべきは、往生が確立した時=

        • 第3回「現代と親鸞」公開シンポジウム(2022/2/12)【開催趣旨】

           2022年2 月12日(土)に第3 回「現代と親鸞」公開シンポジウムを開催した。前回に引き続き、オンラインでの開催となった本シンポジウムについて要録をお届けする。これまでも多様な分野の専門家をお招きし、多角的に問いを深めてきたが、本シンポジウムはより研究領域を横断したものとなった。シンポジウムテーマに掲げた〈いのち〉という語りが、それほどまでに広域に語られているということでもあるのだろう。  〈いのち〉という言葉のもつ肯定/否定のイメージについては、すでに『岩波講座 宗教

          本願実践の「場」

          「信仰を得たら何が変わりますか?」――訊ねられる毎に苦悶する難問であり、断続的に考えている問題である。これは自身の研究課題とする西山義祖・證空(1177 - 1247)に次のような言葉があることにも起因している。  ここで「他力の人」と言われる念仏者について、浄土を願う心もおこらず、迷妄も止まない姿が語られるが、證空における自覚の吐露だと言ってもよいのであろう。それでは「他力の人」になっても何も変わらないのではないか。正確に言えば、弥陀の本願に帰するという宗教体験は、個人の

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          いびつさの居場所

           そうでしたねー、と透明な相づちを打つ。自分の気持ちが透明なのだから仕方ない。今年1月に祖母を亡くした。ある時期、両親よりも長い時間を祖母と過ごしていた。ただ、親族や地元の知り合いが祖母を語る輪には入れなかった。18歳で地元を離れ、川崎で10年を過ごした。魂の故郷は川崎だと思っている。と余分な思いを挟みつつ、故郷とは割り切れないものだなと思う。好きでもあるし嫌いでもある、自分のルーツだと言いたくもあるし言いたくもない。そんな何とも言い難く、それでいて「魂の」などと形容をつける

          いびつさの居場所

          第2回「現代と親鸞」公開シンポジウム(2020/10/24)【開催趣旨】

          第2回「現代と親鸞」公開シンポジウム(2020/10/24)【開催趣旨】 テーマ:生まれることを肯定/否定できるのか?──反出生主義をめぐる問い  生まれてこなければよかった──人生に煩悶するとき、ふとそんな言葉がよぎる。ほんとうに生まれない方がよかったのかもしれないのだ。世に「反出生主義」とも呼ばれる思想である。  ただ仏教学の立場として、こうした問いを「ただの愚痴であって、意味がない」(佐々木閑「釈迦の死生観」、『現代思想』二〇一九年一一月号、一六一頁)とする見解もあ

          第2回「現代と親鸞」公開シンポジウム(2020/10/24)【開催趣旨】

          [ブックレビュー]森博嗣『歌の終わりは海 Song End Sea』

          【ブックレビュー】森博嗣『歌の終わりは海 Song End Sea』(講談社ノベルス、2021) もう傷は癒えているはず。 それなのに、まだそこが痛いと思い込んでいて、触れずにいる。(『歌の終わりは海 Song End Sea』第三章「人生の終わり」より) 『歌の終わりは海 Song End Sea』は、森博嗣が放ってきたそれまでの各シリーズからの延長線上にあり、既刊のシリーズではおなじみの小川令子、加部谷恵美を中心とした物語である。ただ、二人を知らずとも問題なく、二人が

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          【雑記】鬼火が燃えるか?

           論文執筆をしていると違う系統の文章が書きたくなる。論文は8割くらい書けたのでこの辺で発散しとこ。  沼ソング。で一世を風靡している大沼晶保が、「さくらひなたロッチの伸びしろラジオ」(NHKラジオ第1、2021/10/18放送)で詠んだ一首がこれである。 マッチ箱 火がついたとて 鬼火が燃えるか? 命は強い 弱いは気持ち  当番組の共演者で歌人・作家の錦見映理子がTwitterで、「大沼さんが大胆な字余りなのにそれをあまり感じさせずに仕上げていたのはかなりすごいと思いま

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          そういう状態

          「空き巣でも入ったのかと思うほどわたしの部屋はそういう状態」(平岡あみ)  穂村弘『はじめての短歌』(河出文庫)の第一講のタイトルは、「ぼくらは二重に生きていて、短歌を恋しいと思っている」。さらにその第一節のタイトルは、「〇・五秒のコミュニケーションが発動する」。そこで紹介される短歌、「空き巣でも入ったのかと思うほどわたしの部屋はそういう状態」にある、「そういう状態」はことあるごとに反すうしている、してしまう。ここで穂村が提示する改悪例は、「空き巣でも入ったのかと思うほどわ

          そういう状態

          【ネタバレ注意】細田守監督『竜とそばかすの姫』ごく限定的な感想

           ネタバレ注意です。ボカシて書いていますが、事前情報なしで見たほうがよいと思うので、以下、鑑賞済みの方に推奨の記事です。  本編、最後の歌唱シーン終了後、会いに行くシーン。あそこで、やっとベルだとわかった(※正確なセリフではない)、というところが重要な気がする。彼は、現実のハグから、ベルだと真にわかったと。ではここで指す「ベル」とは誰なのか。彼は現実の体験から、〈U〉のベルその人だとわかって安堵した。彼にとって、本当に〈U〉で出会ったベルであるかが重要であり、その逆ではない

          【ネタバレ注意】細田守監督『竜とそばかすの姫』ごく限定的な感想

          日常を永遠と。――浄土に呼び起こされる現実について

          「もっと乱暴に、世の中の宙ぶらりんな物語を終わらせるべく襤褸の少女を派遣するというのはどうだろう。襤褸を着た少女がよたよたと歩いてきて空を見上げ「あ、流れ星」と呟くぐらいでもいいとも思う。世のありとあらゆる物語の中を渡り歩いてラストシーンを飾るというのは、大変に幸せな職業かもしれない」(高山羽根子「「了」という名の襤褸の少女」、『うどん キツネつきの』〔創元SF文庫〕所収)  下に引っ張りすぎたTwitterが更新を渋っている。日常のネタ切れ。最初からそうしていればよいのだ

          日常を永遠と。――浄土に呼び起こされる現実について

          『親鸞仏教センター通信』第77号_あとがき

           本号編集時に、コロナ禍における2度目の緊急事態宣言が発出された。外にも出歩かない日々の中、一つの楽しみ、3年ぶりの楽しみが発売された。5才のよつばの日常を描く漫画、あずまきよひこ『よつばと!』(電撃コミックス)15巻である。日付変更と同時に電子版を買おうとした。そうだった。電子版はない…と3年ぶりに思い出し、朝一で“リアル本屋”で購入。宝石箱をひっくり返したような日常は相変わらずキラキラしていて、笑えて、そして気が向くままにどこにでも行け、密を気にしない日常が並行世界のよう

          『親鸞仏教センター通信』第77号_あとがき

          上杉慧岳ー「近現代の真宗をめぐる人々」第4回

          上杉慧岳(1892〜1972) リレーコラム「近現代の真宗をめぐる人々」第4回(『親鸞仏教センター通信』第68号〔2019年3月〕より)  伝統的な真宗学を頭ごなしに否定するのはそれ自体が一つの思考の枠組みに囚われていると思うが、ただ伝統的な真宗学が強固な思考の枠組みを提供し、それが安易に継承されていったのもまた否定し得ない事実であろう。近代において従来の枠組みを飛び越え、再度、祖師の言葉と向き合う学究が真宗学で始動したわけであるが、それは證空を祖とする西山教学にも言える。

          上杉慧岳ー「近現代の真宗をめぐる人々」第4回

          [ブックレビュー]宇佐美りん『推し、燃ゆ』

          【ブックレビュー】宇佐美りん『推し、燃ゆ』(河出書房新社、2020) その目を見るとき、あたしは、何かを睨みつけることを思い出す。自分自身の奥底から正とも負ともつかない莫大なエネルギーが噴き上がるのを感じ、生きるということを思い出す。(宇佐美りん『推し、燃ゆ』より)  書評ごとにニュアンスが難しいと書かれる「推し」。宇佐美りん自身は、「まず、「推す」というのは、芸能的な活動をする人をファンが応援すること。そして「推し」は、ファンが応援している人を指し示すときによく使う言葉

          [ブックレビュー]宇佐美りん『推し、燃ゆ』

          「親鸞と中世被差別民に関する研究会」発足に際して

           ただ生活するのではなく、人々は特定の生活の在り方に対して様々な言葉や観念を与えてきた。ここにある問題を丹念に見ていく必要があるように思う。苅米一志氏は『殺生と往生のあいだ――中世仏教と民衆生活』(吉川弘文館、2015)の中で、「狩猟・漁撈は、人類にとって本質的な行為である。ところが、人類はどうしても、そこに特殊な観念をつけくわえてしまう。厄介なのは、時代がたつにしたがって、その観念が肥大化し、硬直化していくことである。この場合、狩猟・漁撈という行為が、「殺生」ということばで

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