静かなる学問的情熱を尋ねて

 閉塞するような小さな自己を離れ、広い世界の真理を知的に探究する。そのようなものとして学問への憧れが確かにあった。静かに、しかし情熱的に知への追及を止めない学問の世界を描いた、森博嗣「キシマ先生の静かな生活」(『まどろみ消去』、講談社文庫)にもだいぶ影響されている。そして約十年前、学問的に仏教を学ぶことを選択した。

 学問的に仏教を学んでいくと、自己を離れて、単なる知的欲求に止まることを戒める数々の仏者の言葉と出あうこととなる。自己を離れることが問題になるのが仏教であった。あるいは、〝信仰と学問〟この二つが対立する領域として描かれることもある。例えば日本中世では、純真な信仰と、理性から離れられない頭でっかちな学問態度などと対比され、その優劣が問題にされる。現代においては、主体的な信仰と客観的な学問という、比較から論じられることもある。仏教に踏み込むほどに自身の立ち位置が問われるのだと思う。

 確かに、自己の問題から遊離して、それが仏教となり得るかは疑問である。とはいえ、聖典の言葉を自身の関心や理解できる範疇で受け止めるだけでは、聖典の意味や可能性を限定してしまう危険性があるのではないだろうか。様々な角度から聖典を学び、自分が思いもよらぬ言葉の意味――それは自己を超えて自己を知る言葉の意味――を求める営みを、一つの「学問」として見ることはできないだろうか。そうだとすれば、信仰と学問とは必ずしも対立的に考えるべきものではないのかもしれない。そもそも他力の信とは、自己保身に身を焼かれる凡夫に、自己でありつつ自己を超えた広い世界を与えるものである。その広い世界に具体的に触れる営みとして、学びがあると考えたい。

 ただ、学問も前提としてそれぞれの立場から出発せざるを得ないのであり、さらには自分の理解に固執することもあろう。もっと言えば、自分自身が何らかの価値観に依存していることに気づかないままに、学問的に無私中立であることを標榜するのも問題である。こうしたことは繰り返し指摘されてきたことであるが、自分が小さな世界に固執していることに気づけないのが凡夫である。このような我々に対して、自己に固執する身の事実を自覚させ、再び学問を広い世界に開放する厳粛で静寂な原動力がむしろ他力の信にあるのではないだろうか。

 本年四月に教学研究所助手の任を拝し、新たな学びの環境となった。信と不即不離の場として、真宗の学びについて改めて考えていきたい。

※『真宗』2023年9月号「求生」、47頁より転載。

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