【短編小説】彼女の奢り
生身の彼女とはじめて顔を合わせたのは二年前のことだ。
彼女と相互フォローの関係になったのはいつからだったか、そのきっかけはなんだったか、まるで覚えていない。むしろそういうことを覚えているほうが稀(まれ)だろう。とにかく僕はずいぶん前から、彼女とTwitterを通じて関係していた。
僕らは小説の好みが合い、共通して好きな作家の新刊本が出るとすぐに読み、感想を呟きあった。そして相手のツイートのなかに非常に共感できたり、自分には見つけられなかった部分があると《いいね》をしたり、リプライを送り合ったりした。
彼女自身も小説を書いており、noteというブログ・サイトにそれを投稿していた。小説が投稿されるとTwitterのタイムラインに小説へのリンクが自動的にツイートされた。
僕は彼女の小説の熱心な読者のひとりでもあった。彼女の小説は新人賞や公募に出すには少し短すぎたし、また内容も面白いのだが「何か」が足りなかった。彼女はその「足りなさ」を自分の「才能のなさ」だとして、小説を書くのはただの趣味だと明言していた。
僕は彼女の小説に毎度反応した。DMで良かった点と悪かった点を羅列した文章を送った。最初に送ったときには、それが迷惑になるかもしれないという気持ちがあり、送ってから後悔もしたが、意外にも彼女はとても喜んでくれた。
具体的な感想を聞く相手も少ないし、勇気を出してきいてみても曖昧に「面白かった」っていうだけで……だからこういうふうに書いてくれると嬉しい。余裕のあるときでいいからまた小説を書いたら同じことをしてほしいな。と彼女はメッセージを送ってきた。
僕は自分で言うのもなんだが読み手としての能力が多分にあるようだった。誤字脱字はもちろん、句読点の打ち方、それに一文一文のリズム感、物語の構成上の欠陥――こういうものに非常に敏感で、単行本化している校正の行き届いた本を読んでいてもそれらの欠陥を見つけることがあるほどだった。
彼女とはそのうちLINEを交換し、彼女はnoteに発表する前の初稿を僕に送り、僕が赤を入れてから小説を発表するという形式に移っていった。そのほうが効率的だったからだ。赤入れした初稿をスキャン・データ化して送り、全体についての感想はかなりの長文で送った。
彼女の文章は改稿されると随分よくなった。しかし相変わらず「何か」が足りていなかった。
LINEを交換したことで自然と、私的な会話をすることも増えていった。彼女は商社で働いている社会人二年目で、たくさんの仕事を抱えているということが分かった。土日でも飲み会をすることがあり、参加しなければ特段ペナルティがあるわけではないが、コネをつくるためには行く必要があるといった感じだった。だからそういうなかで本を読み、さらに小説を書いている彼女に僕は感嘆せざるを得なかった。
そのころ僕は大学四年生で、すでに第一志望の会社に内定をもらって就職活動を終えていた。初夏には卒業論文も教授にOKサインを出された。そうしてやることもなく、ただただグウタラしていた。三年半つづけたスーパーの鮮魚部門のアルバイトをやめたのもこの時期だった。仕送りを加えれば来年度の四月、つまり就職するまで余裕を持って暮らせるだけの貯金ができていたからだった。
彼女と会おうという話になったのは十月三日、僕の内定式の日だった。せっかくならきみのスーツ姿を見てみたいし、と彼女が言ったからだ。
僕は午後二時から一時間ほどの内定式を終えると、会社のある浜松町から山手線・品川渋谷方面に乗って新宿駅に降り立った。駅はもうすでに混み合いはじめていた。新宿の紀伊国屋書店・本店の二階で待ち合わせだったが、まだ時間までには相当あった。それで駅から東口に出て適当な喫茶店を探した。外は薄い曇り模様だったが雨は降りそうになかった。乾いた風が街ゆく人びとの間を吹いていた。高校生の集団や、デカデカと高級ブランドロゴの入ったスウェットを着て女の腰に手をまわす成金くさい男とその女、黒人、警察官――さまざまな人間が通りを行き交っていた。
適当に入った喫茶店は駅から比較的近いこともあり、かなり混み合っていた。僕は狭い二人席に通されて、ソファ側に座った。メキシコとか南米で流れていそうなポップ・ミュージックが爆音で流れていた。
僕はラミネート加工された一枚のメニュー表の裏表をみて一番安かったアメリカン・コーヒーを注文した。そしてリクルート・バッグからM・ウエルベックの『闘争領域の拡大』を取り出した。文庫版で布製のブック・カバーを被せてあった。栞紐を動かしてページをたぐる。何度も読んだ本なので内容は知っていた。「毎日生まれたての一日」と題されたこの章では、スーパーでなんの理由もなく(おそらく心臓発作だろう)男が倒れて死ぬ。死体は救急隊に運ばれていく。それを主人公はみている。そして近くにいた夫婦のうち女の方が看護師だったことが発覚するが、なんとなく救命措置をしなかったことを夫に伝える。たいして悔恨もこめずに。ああ、なんて喜劇的な死だろう! そのあたりでアメリカン・コーヒーは運ばれてきた。僕はミルクを全部と角砂糖三つを入れて混ぜ、それを甘くてすっぱいだけの温かい飲み物に変化させると、ちびりと一口飲んでまた読書に入っていった。
小説を読み終わって本の末部の〈解説〉を読みはじめた頃、彼女から連絡があった。
……お待たせしてごめん! 今、会社出られたから、十九時には着くと思う!
……全然です。わかりました。二階のとこに座ってますね
……ありがとう(熊のおじぎスタンプ)
iPhoneの上部には18:12と表示されていた。僕は解説を読み終えると冷めきった飲み物を飲み干し、本をしまい、かわりに財布を出して会計に向かった。
さあ出発だ。十八時二十分。
新宿の紀伊國屋本店の二階には通りに向かった部分がガラス張りの空間になっており、バーで見るような細いスツールがいくつかと長細いテーブルが設置されている。試し読みに最適の空間だった。僕は自分の持っている本を読んでしまうと窃盗犯だと誤解されることを恐れて、そこら辺に陳列されていた本を手に取り、その空間で彼女を待った。腕時計をみると十八時三十五分だった。まだまだだと思って手に取った本を読んでみる。これまでの芥川賞受賞作に筆者が独断と偏見で採点をしていくという本で、下品ではあるものの正直面白くもあった。
ヴヴヴ……とスマホが通知を知らせた。18:55だった。
……グレーの線の入ったスーツを着てる?
……はい!
スツールを回転させてみると、十メートルほどさきに僕を直視して立っている女性がいた。紺色のパンツスーツに白のブラウス、腕にはハイブランドの黒の鞄を絡ませ、拳二つほど足を空けて姿勢よく立っている。髪は後ろで低く括(くく)っている。とても上品な印象。それが彼女だった。彼女は僕が想定していた以上に美人だった。
「よっ」と言って彼女は小さく胸元で手を挙げ、僕に近づいてきた。僕は少し混乱して頭を深々と下げた。
「緊張してんねえ」と彼女は隣のスツールに座り僕の肩をこづいた。「何読んでたの?」
僕は開いていた本を読んでいたページに指をいれたまま閉じ、表紙を見せた。彼女は笑った。
「下品だね。そういうのも読むんだ」
「これはたまたまここにあったのを拾って読んだだけです」
「でもきみが選んだことには間違いないね?」
まあ、それはそうですけど、と僕が不満げに言うのも彼女は気にしていないようだった。
「いつもありがとうね。おかげでだいぶ上手くなった気がする」
「ウン。上手くなってきてますよ。赤も入れるところが少なくなってきたし」
「へえ。きみって素直にひとのこと褒められるんだ」
「はい?」
「一言文句つけなきゃたまらないみたいな人間かと思ってたからさ」
「偏見ですよ」僕は持っていた本を見せて言った。彼女は笑った。
それから僕らは紀伊国屋書店を出て、新宿通りをちょっと外れたところにあるイタリアン・レストランに入った。ムーディーなジャズがかかっている店で、内装もレンガ作りの壁になっており、なかなかおしゃれだった。それほど混雑しているわけでもなかった。僕らは四人席に通され、彼女がソファ側に、僕はその対面に座った。
彼女は赤ワインとボロネーゼの大盛りを頼み、僕は白のスパークリングワインとカルボナーラを頼んだ。シェアしない? と提案されて、マルゲリータピザも頼んだ。
彼女はとにかくもりもりと食べた。僕はカルボナーラを食べ終えるとほとんどお腹がいっぱいだったが、彼女はボロネーゼの大盛りを食べたあと、赤ワインをおかわりし、マルゲリータピザにも躊躇なく手を伸ばしはじめた。そうしてピザはほとんど彼女が食べ切ってしまった。生理前だろうか、と僕は漠然と考えていたが、それ以後も食事をするたびに彼女には大喰らいを見せつけられたので、たんに胃の大きい、食欲旺盛なひとなのだと分かった。
食べ終えると彼女が口をひらいた。
「たくさん眠らない分、お腹が空くの」
僕はiPhoneをしまって、
「眠りと空腹が関係あるんですか?」と訊いた。
「たぶんね」と彼女は言って赤ワインの三杯目を頼んだ。大丈夫、これでやめとくから、と彼女は宣言したが、顔は赤くなく理性的な様子でまだまだ飲めそうだった。僕はというと白ワインを半分残して、すでに赤面していた。僕は下戸なのだった。白ワインを二口、三口のんだだけで右後頭部から錐(きり)で突かれているような頭痛がした。とはいえ酩酊状態にはならなかった。初対面のひとを前にして緊張しているからだろう。残すのはなんだかカッコ悪い気がして、あと半分のワインを一気に飲み干した。少しして、頭痛はさらに強まった。僕は後悔した。
その晩に彼女と話したことは、ほとんど互いの来歴についてだった。彼女は東京生まれ東京育ちで、公立の高校から一流の私立大学の文学部に入った。創作には大学時代から励んでいたのだという。最初に書いたのは詩といえるか怪しいような詩で、黒歴史だからと実家に封印している。捨てないで封印しているところに面白みを感じた。また、仕事をはじめてから一年くらいたったころに自立しようと実家を出て、御茶ノ水の1LDKのアパートに住みはじめたのだという。それが彼女の来歴だった。
僕は僕の来歴を手短に話すと、
「なにそれ、小説みたい!」と彼女が言った。「生まれた国が今は滅亡したなんて聞いたことない。ねえ、きみは小説書かないの?」
「書かないですよ、絶対」と僕は言った。素晴らしい作家の文章を前にすると、文章に目が利く分、そこに追いつくことがどれほど無謀かよく分かってしまうのだ。
「書いたら絶対面白いのに」
「才能がない人間に書く資格はないんですよ。それでも書くのは馬鹿です」と僕は吐き捨てるように言った。
「じゃあ私は馬鹿ってこと?」彼女は急に真剣な面持ちで言った。
「いや……あなたには才能がありますから」
「ないよ」今度は彼女が吐き捨てるように言った。
「書き続けることは才能ですよ。僕は書くこと自体が恐ろしい。できません」
「あんなに私の文章には注文をつけるのに?」
「たしかに書かない奴が何言ってんだって話ですよね。でも僕には書けないんです。あなたには書ける。その差が才能なんです。そういう単純な話なんです」
「なるほどね」と彼女が言った。これほど納得のいっていなさそうな「なるほどね」を僕ははじめてきいた。
「私、次に書く話は長くしようと思ってるんだ。なんとなく新人賞にチャレンジしてみたいと思ってて」
「いいじゃないですか」ぱっと花やいだ。
「それでお願いをひとつ聞いてくれる?」
「お願いですか?」と僕は言った。「無理のない範囲なら」
「たまにこうやって会って私と話して欲しいの。あなたをモデルにした登場人物を書きたくなったから」
「えっ。僕ですか」
「そう。ボクちゃん」
「面白くないですよ」
「面白く書くよ。だって私には才能があるんでしょ」と彼女は言った。
「それはそうですけど……」
「じゃあ決まりね」というと、お会計お願いしまーすと彼女は店員に向かって叫んだ。
その晩は彼女の奢りだった。
それから不定期に僕は彼女に呼び出されて夕食を共にした。たまに彼女の仕事や付き合いがなく、土日が完全にフリーになった時には、アミューズメント・パークで遊んだり美術館に行ったり、一泊二日の旅をしたりもした。彼女からの呼び出しは平均して大体月に二回ほどのペースだった。食事代や旅費はいつも彼女持ちだった。僕が半分出すと言うと、彼女は必ず、
「そういうことは働きはじめてから言うもんだよ。学生の身分でナマイキ!」とからかうように言った。
「それにこれは取材でもあるの。取材費として私はお代を払う。きみは私の小説の題材になる。ギブアンドテイク。そうでしょ、ね?」
「理屈としてはそうですけど、僕の人生とか行為がそれほどの価値があるように思えないんです。それに女性に毎度払わせるのってなんかちょっと抵抗があって……」
「それって差別じゃない? 〈男が廃る〉とか、そういう感覚ならもう古いよ。私は社会人で、きみはまだ一応学生でしょ。そういうのは就職してから、立場が対等になってから言うべきことだよ。分かった?」
はい、と僕は答えた。
「それにきみの過去には面白い要素がたくさんある。もちろん今のきみにもね。きみは自分でそれに気づいてないだけだよ」
それ以降も彼女との付き合いは続いた。
僕はたまに彼女との関係について考えてみた。身体の関係はなかった。でも彼女は多忙で、僕以外と遊んでいる様子もなかった。僕は、彼女が美人であるのに孤独に近い状態であるのを不思議に思っていた。もちろん人間の付き合いは顔だけでは決まらない。けれども美人であれば自然と男は寄ってくるものだし、そのなかには僕より面白い人間だっているはずだった。
もしかすると彼女は多忙すぎて視野が狭くなっているだけかもしれないと僕は考えた。繁忙期をこして、そして小説の題材としての僕の価値がなくなったら――小説が完成したら――僕はお役御免になるんじゃないかと思い始めた。
正直にいって僕は彼女に恋心のようなものを抱いていた。いや、「のようなもの」などではない。純然たる恋心を抱いていた。彼女と手を繋いだり、抱擁したりしたいと思った。しかし、これは本当に不思議なことなのだが、僕は彼女と性行為をしたいとは一度たりとも思わなかった。僕は性的に不能ではないし、そのての欲求に関しては一般程度、もちあわせているはずだった。しかしどうにも彼女とまぐわうイメージが湧かなかった。イメージしようとしてもうまくできなかったし興奮もしなかった。性愛を取り除いた、よりいっそう純朴な意味で僕は彼女に恋をしていたのかもしれない。しかしそんなものを恋と呼べるだろうか? それはどちらかというと友情の延長線上にあるようにも思われた。つまり僕が女で、彼女と親友の関係で、手を繋いだりハグをしたりする、というほうが理想の形に近いように思われた。僕は女になりたいんだろうか? いや、女になりたいという願望はなかった。するとこれは愛だろうか? いや、それほど重々しいものでもなかった。そういうふうにして僕は彼女との関係を楽しみながらも、どこか不安定なものを感じてもいた。
「カンパイ! メリークリスマス!」
「乾杯」
小さめのシャンパングラスが小気味良い音を立ててぶつかりあい、波立った。
十二月の中旬になって彼女から24日空いてる? と連絡がきたとき、僕はどきりとした。しかし想像しているようなことは起きないだろうとすぐに思い直した。彼女にとって僕は被写体であり、面白い人間であり、ただの友人なのだ。それ以上に意味はない。空いてます。と返すと、その日は部署みんな休みになったから一緒に過ごそう! と彼女から誘いがあった。もちろんです。と僕は答えた。
LINEで共有された地図情報を頼りに、地図アプリ上のピンのある地点まで行くと、彼女の住んでいるアパートがあった。彼女のアパートは神社の周りをまわってちょうどその裏手にあった。3階建ての2階、205号室の角部屋が彼女の住処だった。
エントランスを抜けて、ドア前でピンポンを押すと、ちょっとまってねーと中から声が聞こえた。十数秒待っていると、部屋のロックがガチャリ・ガチャリ・とふたつともひらく音がした。入っていいよー、と聞こえたのでドアに手をかけて開くと、
パン!
と、発砲音のような音ともに紙屑が僕の顔に浴びせかけられた。
「メリークリスマス!」彼女は眼鏡の奥で目を瞑ったまま全身にNIKEの服をきて仁王立ちで立っていた。そして手に持っていたクラッカーを縦にひらひらさせて「このクラッカー、勢いで買ったけど使わないよねえ」と言ってけらけら笑った。引き金のひかれたクラッカーからは煙がくゆり、一瞬あの独特の匂いをさせた。煙とともに匂いはまもなく消えていった。廊下に落ちた紙屑を拾って、僕は彼女の家におずおずと入り、革靴を整えて置いた。玄関先のボードには残った5個の色とりどりのクラッカーがビニール袋に入ったまま放置されていた。
広々とした1LDKで、整理も行き届いていた。リビングルームに通され、僕はダイニング・テーブルの奥側に座らせられた。部屋は白を基調とした家具類で揃えられており、ショウルームを見せられているのかと思うくらい生活感がなかった。しいて言えば部屋の隅にある本棚とそのなかにギッチリと収められた書籍の数々、そしてワーク・デスクの上に置いてあるMacBookだけが彼女の生活を表していた。
むしろ僕には、この部屋にいる彼女のほうが異質に見えた。下はNIKEの黒のジョガー・パンツに、上はエメラルドグリーンの(やはりNIKEのロゴの入った)プルオーバー・パーカーを着ていた。インナーもNIKEのスポーツブラにちがいないと僕は思った。とにかくこの部屋の住人はジェラート・ピケを着ているべきで、まちがってもNIKEで全身を固めるべきではないという気が僕にはしていた。
「NIKE、好きなんですか」と僕はタイミングを見計らって訊いた。
「うーん。べつに好きってわけでもないけどスポーツ・ウェアって機能的でしょ。それにひとつのブランドに決めちゃうと、他も同じものに揃えたくなっちゃって……そうしてるうちに部屋着は大体NIKEになっちゃったんだよね」
へえ、と僕は言った。彼女は僕のトレンチコートを預かってハンガーに掛け、廊下の方にそれをしまいにいって、また帰ってきた。
「いつもはコンタクトレンズをして、パンツスーツ姿のあなたを見てたから、眼鏡にNIKEって、すごく新鮮です。意外でした。休日の家ではジェラート・ピケとかそういうのを着ているイメージでした」彼女は外に出かける時、いつも高級ブランドのワンピースを着ていたから、彼女は全体において高級志向なんだと僕は漠然と思っていたのだ。
「きみってやっぱり偏見がすごいね」と彼女は笑って言った。
「たしかに偏見ですね」
「願望の押し付けでもあるだろうけどね。私の平日や休日の外でのイメージが勝手に〈そういう女〉像をつくりだしたんだとしたらしょうがないんだろうけどね」
「そういうところもあるかもしれないです」と僕は言った。
「―――」
「―――」
「テレビ、点けようか」
「あっ、ハイ」
彼女がダイニング・テーブルの上にまっすぐ置かれたリモコンを手にとって、テレビの電源を入れる。「なにかみたいのある?」
いやあ、任せます。と僕は答えた。じっさいみたい番組など、とくになかった。しかし会話が途切れて無言の状態ができるのはまずいと思ったので、テレビはつけておいてほしかった。彼女はだいたいのチャンネルをザッピングした後、めぼしいのはないねえと言って、テレビを切ろうとしたので、今度は僕がリモコンを受け取り、結局いちばん無難そうなNHKのニュース特番にチャンネルを合わせた。
そうして彼女がキッチンから、デパ地下で買ってきたという一人前ずつに切り分けられた七面鳥とグラタン、それに小さなシャンパン・グラスをふたつずつ持ってきてくれた。僕は買ってきたケーキを彼女に渡し、彼女はそれを冷蔵庫にいれると、かわりにシャンパンを取り出して、僕に手渡した。私、シャンパンあけられないからやってくれる? と彼女は言った。彼女は大きな音が駄目らしかった。だからクラッカーの時も目を瞑っていたのかと僕は得心した。
コルクを抑えている針金を少し緩めてから、僕は彼女から貸してもらったナプキンを上にかけて、いきおいよくコルクを引っこぬいた。ぽん、と高い音がして開栓した。噴き上がったシャンパンの泡が少しナプキンを濡らした。
「ありがとう」と彼女は言って彼女はボトルを僕から受け取り、彼女の手によって二つのグラスに七割と五割くらいずつのシャンパンが注いだ。五割のほうが僕だ。彼女に下戸であることはすぐにバレていた。彼女は僕の向かいの席に座って背筋をぴんと伸ばした。「さあ」といってグラスを持った。
そうして僕らは乾杯をした。
その晩、僕ははじめて彼女を抱いた。彼女は酔い、僕を誘ったのだった。ねえ、私、あなたの身体を知っておきたいの。でもあなただけを裸にするのはフェアじゃないでしょ、だから私も脱ごうと思うの。そう、彼女はたしかに言った。顔はほんのりと赤かった。
暖房が効いていて、カーテンは閉めきられていた。彼女の衣擦れ音をききながら僕は俯いていた。ねえ、どうするの、これを逃したらもうチャンスはもうないかもよ。と彼女が悪戯げに言った。僕は驚くべきことに勃起していた。これはしかし想定外のことだった。やがて僕は観念して顔をあげ、彼女の黒い毛髪の間で見え隠れする梨ほどの大きさの乳房をみとめてから、ベルトをとり、シャツのボタンを外した。
それは素晴らしい経験だった。
僕は財布からコンドームを取り出し、それをなにも置かれていないベッドサイドに投げた。そして電気を消すと、真っ裸の彼女の女陰を、とくにその陰核を舌で探し当て執拗にねぶった。彼女はあああ、あああ、と▲▲児のような怪しい抑揚を持った声で喘ぎつづけた。十分以上そうしていた。彼女がイったのを二度確認した時には僕はすでに興奮の最大地点に達していて、いそいで陰茎にコンドームをつけると彼女の中へと挿入した。激しいピストン運動をした。彼女は相変わらずあああ、あああ、と喘いだ。今度は少しばかり高い声で。彼女は自分の腕を交差させて顔を隠しながら喘いでいた。まるで両腕を拘束されているようであった。その光景は僕の中にある加虐的な欲望を加速させ、さらに腰は激しく動かさせた。
そうして僕は彼女の中で射精した。
僕らは疲れて、彼女が眠ったのを確認すると、僕も眠気に抗うのをやめ、同じく夢の世界へと落ちていった。
朝になって起きると彼女はすでにいなくなっていた。iPhoneをひらき確認すると12:05だった。これではもう昼だ。
ダイニングテーブルにポストイットが貼ってあって糊のついた上辺と反対の辺に鍵が載っていて、ポストイットが反れないように固定されていた。〈仕事があるから先に出るね。朝食はキッチンにあるものを使って勝手に食べてもらってかまいません。鍵はポストに入れておいてね。〉そう書きつけてあった。
僕はキッチンの下の引き出しから苺味のシリアルを見つけて、食器棚から出したボウルにシリアルと牛乳を入れるとブランチとしてそれを食べた。そして食器類は洗って水切り台に立てかけて置いた。
朝食を食べ終わると、僕は彼女の部屋をすこし探索した。ワークデスクの上部に書籍などを収めるスペースがあって、そこにワープロ原稿を印刷したと思しき白い紙がファイルに入れて立てかけてあった。僕はそれをひらいてみた。そこにはこれまでに発表した小説と、僕をカリカチュアしたような人物像の年表のようなものがプリントされているのが発見された。
2000年1月誕生、2月X国を脱出し日本へ。(両親は帰国、彼にとっては来日)。X国で民族蜂起がおき、その混乱に乗じて隣国Y国がX国を侵攻。併合を支持するか否かの選挙が各地で行われ、99パーセントの賛成票によってY国に併合される。そうして世界地図からX国は消えた。根無草のコンプレックス。誰の調子にでも合わせられるが、自分というものがはっきりとない。自我がうまく形成されてこなかったらしい。等々。それに十枚に満たぬ書き出しの原稿。こちらはまだ見ないでおいた。それにしても最近の彼女の執筆のスピードは落ちつつあった。それは新人賞に出す小説をかくための準備期間だと考えれば納得できるが、僕という人間を小説にかきあぐねているのだとしたら、それはすごくもったいないことだと思った。ほかの被写体を探すべきだと思った。少なくとも身体を重ねてしまった以上、この関係がおわらなければ客観的に僕という人間を捉えて書くことは難しいだろうと考えたからだった。だが僕はまだ彼女と一緒にいたかった。
「この鍵の形状は特殊でねえ。一旦担当のところに送る必要があるから、一週間から二週間くらいはかかるかな」と鍵屋兼靴の修理業者は言った。じゃあいいです。僕は諦めて彼女のアパートに戻り、ポストに鍵を入れた。
……遅くに起きてごめん。鍵はポストに入れておきました。
……(おっけーの熊のスタンプ)
昼休みだったらしく、彼女の返信は早かった。
僕は自分のアパートに戻った。本棚から本は溢れて、いくつかの本の塔ができている。フローリングのそこら中に大学のプリントが散らかっていた。
彼女の家に泊まった後だと、あまりに自分の家が汚く思われて、僕は軽い気持ちで自室の掃除を始めた。大学のプリントは一つのゴミ袋にためていき、基本的にすべて捨てる。どうしても気に入ったプリントは、コピー機についたスキャナでデータ化し、MacBookの〈プリント〉と題したファイルに格納する。
積み上げられた本は、そのほとんどがまだ読まれていない、いわゆる積読本だ。一ヶ月以内に読むと決めたものだけを残して、あとはプリントと一緒のゴミ袋に詰め込んだ。
ゴミ袋は四つできた。冷蔵庫に貼ったゴミの収集日のプリントを確認する。資源ごみは30日金曜日が直近だった。目に触れるのを嫌って、また腐らないこともあって、クローゼットの下の部分に入れて五日後まで隠しておく。
部屋はだいぶすっきりした。僕は久しぶりにコーヒーを淹れて飲んだ。相変わらず牛乳と砂糖をたっぷり入れる。砂糖をいつもよりいれすぎ、甘ったるいだけの飲み物になってしまった。しかしなにかしらの達成感があった。空気の入れ替えのためにあけっぱなしにしたベランダから、乾いた、冷たい風が部屋に流れ込む。冬にしては気持ちの良い風だった。さすがに寒いと感じて、しかしまだ換気が完了していない感じがした。僕は部屋の中でロングコートをかぶってソファに座り込んで、これまでに読んだ本のことを思い出してみることにした。このとき思い出していたのは確か大江健三郎の「死者の奢り」だった。
「死者の奢り」は奇妙なアルバイトをする小説だ。東京大学医学部で検体のために地下にあるプールで濃褐色のアルコール溶液に漬けられている無数の遺体を別の水槽に移動させるというアルバイトをする小説だ。僕はこの小説を思い出すたび、周囲の家族に反対されながらも、自分の遺体を大阪大学医学部附属病院の検体に差し出すことを宣言した父方の祖母のことを思い出す。
祖母は僕が中学時代に亡くなった。心臓が小さくなっていく病気で、日々多くの薬を摂取していた。最後は施設から大阪の実家に遺体が移され、布団の中で永遠の眠りについている祖母の前で僕は初めて直接死者に手を合わせた。しばらくすると三人の男がやってきて、二本の鉄の棒の間に布を張っただけのような担架に祖母の遺体をのせて、大学にもっていこうとした。二人の男が担架の持ち手をもち、ひとりがそれを監督していた。祖母の遺体は運ぼうとすると左脚がだらんと、担架からこぼれ落ちた。それを監督していた男がまた担架に戻した。しかし左脚は抵抗するようにまただらんと担架からはみ出た。監督が直した。この工程が三度繰り返されてからやっと、祖母の遺体は大阪大学医学部附属病院へと送られていった。
祖母の遺体も無数の屍体と同じように、あの濃褐色の、ねばちっこい、アルコール溶液に全身を漬けられているのだろうか。祖母の遺体はプールほどの大きさの水槽に浸かって、ほかの遺体と絡み合って、浮いたり沈んだり、たまの大学生の気まぐれで、ポールのようなもので突かれたりして笑い種にされているのだろうか。ふとそんな想像を展開しはじめた。
今の時代ではそういうことはないように思う。僕の常識のようなものがそう告げている。しかし僕は実際に医学部生ではないのだし、専門の知識もなかった。それに調べる気もなかった。だから確認のしようがなかった。僕の祖母の死後のイメージは「死者の奢り」によるほかなかったし、僕はそれで満足していたのだ。なぜかといえば、それはただの気まぐれの想像で、なんの感動もなく、恐怖もなく、時間を潰すという目的にはかなっていたからだった。
充分に換気ができたと思った僕は、ベランダの戸とカーテンを閉めた。外はもう夜だった。クリスマスの夜だった。僕は今頃せっせと働いているであろう彼女のことを想った。彼女の仕事のことは彼女から聞かされなかったし、知ろうとも思わなかったが、今日は忙しいだろうなと思った。
彼女と会う頻度は増えていった。遊びに行ったり、旅行をしたりするペースは変わらなかったが、それとは別に彼女の家に泊まることが増えたからだった。
彼女は大体夜の九時から十時、遅いと十二時を越して帰ってくることもあった。僕はコンビニのイート・イン・スペースでコーヒーを買って本を読みながら彼女を待った。合鍵が欲しいとは言わなかったし、彼女も合鍵を渡そうかとは言わなかった。そして互いの関係について、僕らはいづれも明言を避けているようであった。恋人とかセフレとか、そういう関係とは微妙に違うものを僕は彼女との間に感じていた。彼女の方もそうだったかは知らない。けれどもはっきりとした言葉で関係を規定した途端に、なにかしら僕らの関係に決定的な齟齬が生じてしまいそうな予感、もっといえば関係が崩れ去ってしまいそうな予感が絶えずあったのは確かだった。その関係はひとまず翌三月、僕が大学を卒業するまでは続いた。
四月になり、僕は就職した。大企業の子会社のIT部門でSE職に就いた。プログラミングの知識が必要とされたが、僕はまるで持ち合わせていなかったので、最初のうち、ひどく苦労した。OJTで指導についてくれた会社の先輩が優しかったことだけが幸運だった。とはいえ入社して数ヶ月間、僕に余裕はなく、彼女の誘いを断ることが続いた。そのたびに彼女には申し訳ない気持ちと、自分のままならなさに嫌気がさした。
七月になり配属先が決まり、八月には仕事に多少は慣れが出てきた。それでやっと彼女に会う余裕ができた。その頃には気を遣ってか、見限られたか、とにかく彼女の方からの誘いは来なくなっていた。
……お久しぶりです。やっと余裕ができてきたので、また会いませんか。食事でも。
とLINEした。数ヶ月放っておいてすぐに彼女のアパートを訪れるなんてことは都合が良すぎると思った。だから食事に誘った。するとすぐに返事は来た。
……いいよ! 私の方もいちばん忙しい時期は越えたから。うちに来てもらってもいいけど、どうする?
……いや、今回は食事にしましょう。お互い社会人なので割り勘です!……なるほどね笑 わかったよ
それから僕は東京駅付近のフレンチ・レストランを探した。ぐるなびで、三つ、価格帯の違う店のリンクを彼女に送った。どこがいいですか、と訊くと、きみの行きたいところでいいよ、私はどこでも大丈夫だから、と彼女は言った。僕の懐事情を慮ってくれたのだろうが、僕は入社以後いそがしく、生活費以外にほとんどお金をつかっていなかったから経済的には余裕があった。それで一番価格帯の高い、ホテルの高層階にあるフレンチ・レストランに決めた。仕事が終わった後に合流することにして、終業時間を正確に把握できている日に行くことになった。
金曜日なら終業時間どおりに帰れるから、と彼女が言ったので、翌週の金曜日にレストランの予約をとった。僕の方は(あまりいい顔はされないが)いつでも終業時間どおりに帰ることができた。普段はいつも残業をしているので、「金曜日だけ早く帰りたい」と上司に言うと、いいよ、とだけ返答があった。声に感情はなかった。メモに金ヨウ・残なし、とだけ書いて、仕事にもどっていった。集中したいのだろうと思ってそれ以上声はかけなかった。「なにかあるの?」とか訊かれたらどうしようと思っていたがそんな心配も杞憂に終わった。
東京駅を丸の内中央口から出ると、煉瓦造りの駅の表層を見ることができる。駅から少し距離をとって、石でできた席に座ってライトアップされた煉瓦の壁面をみる。
僕はしばらくその壁面をみていた。もしかしたらハリボテではないかもしれない、丸の内側だけが煉瓦を一個一個積んでいってつくられているのかもしれない。いや、それだと地震のような災害があった時、丸の内側だけが崩れてしまう。だからやっぱり内側は鉄筋コンクリートなどでできていて外側に煉瓦を貼り付けただけのハリボテなのではないか。――
「よっ」手前に焦点をあわせると、彼女が立っていた。相変わらず紺のパンツ・スーツを着て、姿勢良く立っていた。髪の毛が肩くらいまで切り揃えられているところだけが変わっていた。それ以外の点で彼女はまるで変わっていない様子だった。
「なかなかサマになってきてねえ」と彼女は言いながら僕に近づき僕のスーツのえりを軽くつまんだ。
「そうですかねえ。だいぶ苦労はしましたけど」というと彼女は笑った。「一年目はだれでもそうだよ。慣れればどうにかなるよ。行こうか?」 腕時計を見ると18:50だった。予約は19:30からだったので、東京駅まわりを軽く散歩してから、僕らはフレンチ・レストランに入った。
コース料理を食べ、彼女は赤ワインをガブガブのんだ。普段より早いペースだった。とはいえ、彼女と食事をするのは久しぶりだったから、その間に飲酒のペースが変わっただけなのかもしれない。
それにしても彼女は飲み過ぎだった。顔は紅潮し、一度トイレに行ったがその足もふらついていた。
「なにか悩みでもあるんですか」と僕は訊いた。
「悩みねえ」と彼女は言った。とろんとした伏目がちな眼には赤ワインの反射した店内の光が当たってゆらめいていた。
「父さんが死んだのよ」
少し間を置いて言うべき言葉を見つけた僕は、
「ご愁傷様です」と言った。
「べつに嫌いだったわけじゃないんだけどね、涙がでなかったの。お葬式で。だってみんな死ぬじゃない」
「そう思います」
「でも父さんが死んだら、いつかは母さんも死ぬんだなってリアルに思われてきて、それはすごく悲しかった。母さんだから悲しいってわけじゃなくてね。生きている人が死ぬのを想像するのが辛かったんだよ。ねえ、わかってくれる?」
「言いたいことはわかります」
「きみはいつもわかってくれるね」と彼女は言った。その言葉には多分に皮肉が込められているのが僕にはわかった。
「わからないこともありますけどね」
彼女は赤ワインを飲み干した。頭をあげて喉をこくりと言わせて飲み干した。
「そもそも、あなたには自我ってものがない」
「ありますよ。一般程度には」
「ないよ」
「あります」
じゃあ、と彼女は言った。「私が書いた小説は間違えたかもしれない」「書き終えたんですか?」僕は驚いて訊いた。
「うん。四〇〇字詰で150枚くらい。読んでくれる? 前みたいに」
「もちろんです」と僕は言った。
彼女は黒革のトート・バッグから右上の端をクリップで留めた原稿の束を少し見せて、
「もってきたから今から読んでくれる?」と訊いた。
「ここでは……」
「もうすぐコースも終わるでしょ。そしたら喫茶店で。どう? 赤のペンはある?」
「わかりました」と僕は答えた。
レストランの代金は割り勘だった。彼女が、奢るのはこれで最後、と言ったが、僕は頑として割り勘を譲らなかった。僕はもうすでに一介の社会人なのだと主張して、彼女が折れた。
近くのカフェに入って僕は原稿を読み始めた。本当のことを言えばもう少し静かなところで読みたかったが仕方がなかった。僕が読みあぐねているのを彼女は対面の席にいて察したらしく、
「なんだったら、うちくる?」と言った。「明日は土曜日だし、うちなら静かだから読みやすいでしょ」
「……そうですね。そっちのほうがいいかもしれないです」
そうして僕らは東京駅から中央線(高尾行)に乗って御茶ノ水駅で下車した。彼女の足取りは未だにおぼつかなかった。僕はホームの自販機で水を買って彼女に飲むように勧めたが、彼女は唇をあけずに息をはきだし、ブルブルブルブル! と唇を烈しくふるわして僕を威嚇した。なおもしつこく勧めると、
「飲むよ。飲めばいいんでしょ」と言って彼女はペットボトルに入った水をほんの一口のんだ。僕は心の中でため息をついた。
彼女は自然と僕と手を繋ぎ、繋いだ手をぶらんぶらんさせながら帰路の唄を歌った。
家に着くと、彼女は嘔吐した。ちゃんとトイレで嘔吐したが、彼女の醜態らしき醜態をみるのはこれが初めてだった。
彼女の家には僕用のルーム・ウェアがあった。泊まりが増えていった時期に着替えを持っていくのが面倒だからと、買って置いておいたものだった。そのルーム・ウェアを彼女は僕に渡し、僕はそれに着替えた。僕が着替えている間に、彼女もNIKEのジャージに着替えていた。ブラとパンツだけになった状態になっても彼女はそれを隠そうとしなかったが、それは彼女の貞操意識が酒によって薄まっているせいか、僕にそのレベルで心をまだ許しているからなのか、わからなかった。
彼女の書いた小説の題名は「隔たり」だった。
「隔たり」はこういう内容の小説だ。まず主人公は出生地が異国である。そしてその国は彼が日本に移ると同時に他国による侵略によって併合されてしまう。彼の故郷は失われてしまうのだ。そして彼の両親はたびたび興奮した様子で、そうした過去を彼に語ってきかせる。そのために彼は故郷のない不安をもちながら、異邦人のような気持ちで日本に暮らすようになる。自分には「いるべき場所はない」という意識が彼に故郷再建設の夢を見させる。しかしそれは実行不可能な夢であり、大人になっていくにつれその葛藤を押し殺していくことになる。この葛藤を押し殺すことによって、主人公は逆転するように日本人に対する憎しみを抱くようになっていく。自我というものはなく、ただ動物的な感覚が彼にはある。ある日休日の朝にみた「××××××」いう番組で××が×××××として、その生活が放映されているのを見て彼は××暗殺を――日本人の殺害を――画策する。彼はナイフを持って××が外遊している先々で××殺害の時機を狙うが、外遊する先々で××をみて救われたような言葉を吐くもの、恍惚とした表情で××を見るものをみて、殺害計画を放棄してしまう。そうして彼は日本人殺害を諦めて、日本との、そして世界との決定的な「隔たり」を感じながら、アパートの風呂場のなかで腕を切って自殺をする、そういう小説だった。
「これがあなたから見た僕なんですか」僕は愕然として言った。
「うん」と彼女は言った。「あり得たきみの未来を書いたの。どう、面白かった?」
しばらく考えてから僕は答えた。
「正直言ってわかりません。でも最後まで一気に読めたし、足りないと思っていた『なにか』がまだここにはあるけれど、それでも面白いんだと思う。でも……」
「でも?」
「自分が題材にされると、客観的に読めている自信がないですね。とりあえず誤字脱字だけ赤入れしておきましたけれど……」
「ありがとう」と言って彼女は原稿を受け取った。「いつもありがとう。直すね」
「直すところもほとんどないです。もう僕の役目もなくなってきましたね」「そんなことないよ。私たち友達でしょ」
「―――」
「―――」
「はい」と僕は言った。それで話はいったん終わった。
彼女はリモコンをとってテレビをつけた。
テレビはバラエティーを映していた。右上に21:15とある。芸人が司会者に頭をはたかれていた。痛そうではなかった。
「ところでどの新人賞に出すんですか?」
「枚数が条件に合ってて、一番近いやつに出すつもり」
僕はiPhoneでSafariをひらいて「五大新人賞」と検索して、枚数がゆるして締め切りが一番近いものを見つけて、彼女に伝えた。彼女はその賞に応募すると言った。
「文藝誌に載ったあなたの文章を読むのが楽しみです」
「いやいや、今回は一次選考に通るのが目標だよ」
「佳作まではいけますって、多分」と僕は言った。おそらく小説の完成度は悪くないはずだった。それに彼女の文体には柔軟性があり、まだまだ題材を吸収して自分の小説に取り込むことができる資質があった。
それから僕らはベッドで眠った。
朝、起きると彼女はキッチンに立ってソーセージを焼いていた。
「おはよう」と僕が言うと、彼女は手をあげて合図した。彼女は火をつかって料理する時、火事にならないかすごく気にしていた。だから声をかけても最低限の挨拶しかしなかった。
彼女は二人分の皿にソーセージとレタスとスクランブルエッグをよそって、朝ごはんに出してくれた。僕らはそれを食べながらNHKのニュースをみた。ウクライナとロシアの戦争について報道がなされていて、彼女はそこから目を逸らすようにチャンネルを変えた。芸能人が観光地にロケに行って、番組内でクイズが出題され、ひな壇の芸人がふざけた回答をして目立とうとしあう番組にチャンネルが変わった。
「僕はここにいるべきではない」
「それって私の書いた小説じゃんか」と言い彼女は笑ったが、僕の表情を見てやがて笑うのをやめた。「ねえ、それって本気?」
はい、と僕は答えた。本当にそのとき、僕はそう思ったのだった。「僕を客観的に書くにはあなたは僕から離れなきゃいけない。それであの小説は完成するんだと思うんです」
彼女は黙ってフォークを置いた。
「そうかもね。でもこれまでどおりたまに会って遊ぶくらいいいんじゃないの? そういう関係に戻ったら……」
「駄目ですよ。それじゃ駄目なんです。僕はここにいるべきではないし、あなたと会うべきじゃないんです。僕らは別れて、あなたはあの小説を書き直して、完成させるべきなんです。僕は昨日、あの小説を読んだときに思ったんです。あなたに足りない『何か』はだれかに成りきる、成った、と錯覚であっても信じぬいて人物を描きぬくことだったんです。僕があなたの目の前にいたり、ちらつくだけでも本当の僕を中途半端にそのなかに加えてしまうんです。それでは駄目なんです」
「じゃあ、もう会えないってこと?」彼女はか細い声で言った。
「その方がいいでしょうね」
ソーセージもスクランブルエッグも冷め切っていた。それを食べたあと、僕はスーツ姿で自分のアパートに帰った。
アパートに帰ると洗濯物を洗って、少し掃除をした。部屋はほとんど片付いていたが、部屋の隅から隅までをくまなく掃除した。洗濯機が洗濯完了の音を出したので、洗濯物を取り出してベランダをひらき、物干し竿に干した。そうしてコーヒーを淹れて飲んだ。なにか自罰的な思いで、砂糖もミルクも入れずに飲んだ。そののち彼女のLINEもTwitterもnoteも、僕はブロックした。
それから僕は文藝誌に賞の発表があるたびに「隔たり」という題と彼女のペンネームを探している。
あれから一年経って、秋になったが、未だに彼女のペンネームをみない。だが、僕はいつまでもそれを待ち続けるだろう。そうして彼女があの小説を書き続けていることを信じている。僕は社会の中で徐々に消費されながら、彼女によって永遠に生かされるという一点の希望を渇望しつづけている。
<了>