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多様性なんて言葉で表すのは残酷だと思う〜映画「怪物」のゆるっと感想・考察〜

1.『怪物』を観るきっかけ


これまでに見てきたドラマの中でも、私は『大豆田とわ子と3人の元夫』(2021年、フジテレビ系)が特に大好きである。リアルな数字で3回は見た。松たか子さん演じる大豆田とわ子とその周囲の人々の関わり方を見ていくうち、平凡な自分自身の日常生活に対しても不思議なときめきを感じられるようになった。ドラマで描かれるリアルな描写とほどよいユーモア、そして誰もがふとした時に感じている生きづらさへの解釈が、窮屈な心の救いになってくれるような気がして、今でも定期的に電車の中で「Presence」(STUTS & 松たか子 with 3exes)を聴きながら、ドラマの登場人物みたいな気持ちでぼーっと過ごしたりする。

このドラマがきっかけとなり、私は坂元裕二さんのことを知り、彼が脚本を手がけた過去のドラマや映画を身漁った。はっきり言えば、超にわか坂元裕二ファンであるが、だからこそ、超軽い気持ちで「『怪物』観にいきたいな〜」なんてぼんやりと考えていた。あんまりにもぼんやりとした感情だったからか、なんかカンヌで賞を取ったらしい、という薄っぺらい情報だけで鑑賞することになった。
そして、前情報ほぼゼロの状態で怪物という映画を鑑賞できたことがこんなにも意味のあることだったなんて、と今はただただびっくりしているし、幸運に思っている。(それができるよう徹底して作品の本題が隠れるようなプロモーションをした制作サイドの気持ちも今ならとてもよくわかる。)

何が言いたいかというと、とにかく凄まじい映画に出会えたということだ。まだ観に行っていない方が、もしこの記事を読んでいるならば、今すぐこの記事を閉じて、何も調べずにただただチケットを予約し観に行って欲しいと思う。

2.『怪物』のゆるっと感想

前情報がなさすぎたこともあり、鑑賞後はあまりにも衝撃的すぎて、放心状態だった。仕事終わりにレイトショーで観に行ったこと(しかも翌日も仕事)を心底後悔した。胸が締め付けられる思いと、すみずみに散りばめられた巧妙な伏線をちゃんと回収していかねばという坂元裕二ファンあるあるな義務感と、久しぶりに自分の価値観が大きく揺さぶられる感覚に眩暈がするようだった。
映画は、同じ出来事を複数の視点で描くいわゆる羅生門式で展開されていくのだが、前半の湊の母、担任の教師の視点から、後半の湊・依里視点に映った瞬間、観客は”真実”っぽいことに気が付くこととなり、それ以降私はずっと涙が止まらなくなってしまった。

ネットで感想を見ていると、あまりにも視点によって登場人物の人柄が違いすぎるのでは、と指摘もされていたけど、個人的には、自分がどういう立場にいるかによって生まれる固定観念は、事実をあれくらい歪めているものだと思っているので大して気にならなかった。むしろ、あれくらいのインパクトを持って印象の違いを描いてこそ、誰もが誰かの怪物になりうる(怪物の心を持っている)というメッセージにもつながるのではないかと思う。

そして何より、この映画は、湊・依里の視点に映ってからの映像と心の機微の描き方があまりにも美しすぎて、一瞬で彼らが恋心を抱きあっているということに気がつける構成になっている。これに関しては、是枝監督の手腕が凄すぎるのだと感動せざるを得ない。観客が怪物を探しながら観ていた価値観を一気に変えてしまうとんでもない儚さを持っている。初めて誰かのことを好きになり、相手と心が通い合ったときのときめきが映像を通じて描かれれば描かれるほど、前半の内容がどんどん彼らを追い込んでいたのだと気が付く。

印象的なのは、突如消えた湊を暗いトンネルの中で母親が見つけ出し車で連れ帰るシーンだ。母親から湊への「湊が結婚して普通の家庭を築いてくれるまでお母さん死ねない、死んだお父さんと約束してるの」という一見愛のある台詞が、同性を好きになったことに気づきはじめた湊の心を残酷に傷つけていたことや、その後車から飛び降りて怪我をした湊がCTスキャンに入ることにより、同性のことを好きになる=脳の病気(豚の脳と入れ替わっている)を印象づけることになってしまっている。あまりにも出来事の一つとして自然に描かれすぎて、母親も観客も、全く違和感なくスルーしてしまう出来事であるが、いかにLGBTQに関する視点が根付いていないかを逆説的に感じるシーンである。
(もしかすると、私と同じくらいの世代であれば(今の20代以下)、母親の台詞に一瞬、結婚して家庭を持つこと大前提にされてもな、というモヤりはあったかもしれないけれど、ここで湊と依里の関係性に気づくことは難しいと思う。)

3.多様性の時代というけれど

この映画は、カンヌ国際映画祭のクィア・パルム賞を受賞したが、この栄誉がこの映画の大きなネタバレになってしまっている感は否めない。湊と依里の関係性を、”いじめているーいじめられている”というフレームで見ることで、映画の後半、真実に気がついた瞬間に自分の心に居座っている偏見への衝撃が大きくなるからだ。実際、映画のプロモーションはネタバレ厳禁を徹底したものとなっているし、その分観客の門戸は広がっているような気がする。今の時代、LGBTQを描くことに対する世の中の風潮は日毎に当たり前のものになってきていることを踏まえると、その主題を隠すことに違和感を覚える人もいるようだけれど、映画の構成を考えると仕方ないことではないかと思う。また、この物語はLGBTQのことだけを描いているわけではなく、登場人物誰もが、自分の中の固定観念に支配され怪物的になっているというテーマもあるからこそ、一層面白くなっていると思う。

何はともあれ、ここ数年いろんなシーンで語られる”多様性”志向はもはやある種のブームだと思うが、真の意味で多様性を考え、受け入れられている人はどれくらいいるんだろう。結婚して子供を産み家庭を築く、という型にはまらなくても、幸せの形は人ぞれぞれだというには、社会構造が厳しすぎないか?と思うし、多様性教育によって当事者が自分だけではないという安心感を得ることは悪いことでは決してないけれど、その割には構造的な生きづらさは大して進歩していないような気もする。多様性という言葉で解決していこうとすること自体は良くても、当人にとって現状は結構残酷なんじゃないかなと思う。

実は、映画の中で、高畑充希さん演じる保里先生の彼女の存在がものすごく効いている気がしている。彼女の登場シーンは少ないけれど、行動や発言は、基本的に考える・解決することから目を背ける姿勢しかないからだ。この多様性の文脈の中で最も当事者からかけ離れた存在を暗に象徴している存在であり、世の中全体をみればほとんどがこの他人事の立場なのかもしれないと思う。

この映画は、物語としての面白さや映像としての美しさはもちろんのこと、視点が変わることによって、当たり前に対する違和感を自分ごとにして捉えるきっかけを与えてくれる。ラストシーンの解釈は人それぞれだけれど、人と人が想いを通わせるということの素晴らしさは、その形が恋愛・友情、なんであったとしても何より尊いし、その価値観は押し付けられるものでも強要すべきものでもない。「誰かにしか手に入らないものは幸せとは言わない。誰でも手に入るものを幸せって言うの」という校長先生の台詞が、改めて心に突き刺さる。

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