仕事で何かを任されるということ
寝る1時間前はパソコンや携帯の光を浴びないようにすると睡眠の質が上がると言われたにもかかわらず22時にnote書いてるたなかです。
私は今、任されている仕事がある。それはユーザからお金をもらうような稼ぎのある仕事ではなくて、逆にもらいたくなるような面倒な仕事だ。
面倒とは面が倒れると書くが、私の面が倒れるわけではない。まあそんなどうでもいい話は置いておこう。
ちょっと仕事で失敗しそうになったが、15分悩んで結局どうにもならないとわかった瞬間にミス覚悟で走ったら思ったより状況は悪くならなかったので、何かを任されるということについて書いていく。
何かを任されるということ
つまり、一定の信頼と信用が発生している。信頼 wikipediaで調べると最初に”藤原信頼”がヒットする。どうやら、『平安時代 末期の 公卿 。 後白河天皇 の寵臣として絶大な権力をふるうが、同じく上皇の 近臣 であった 信西 と対立』らしいが信頼とは全く関係がない。
信頼⇒相手を信用して頼りにすること。
信用⇒確かな言葉を信じて受け入れること。
さっぱりわからない。どちらも同じ意味に聞こえる。私の言葉で補足したいが、『信用とは条件付きの信頼』で『信頼はただ信じること』を解釈している。
信用のつく言葉で言うと、信用金庫とは日本における預貯金取扱金融機関の一形態である。
自身の身分や所属の証を提出することでお金を預けられる権利を得る。そこには信用金庫が口座を開設する条件を満たすことが必須だ。
つまり、信用とは条件付きの信頼というわけである。
前段が長くなってしまったが、仕事における任す、託すといった行為は相手を信用、信頼しているわけで成果として達成すると評価がつく、ある種のKPI指標の1つなのだ。
しかしながら、それはリスクを抱える
何かを任されることは社会で働くうえでは非常に重要であると思う。
働き者は任されやすい。
任されやすいとは聞こえは良いが、働く側にとってみると次から次に降ってくる雪の山をせっせと雪かきで地面をかき分けるような感じではないのだろうか。
ちなみに私は雪かきは得意なほうだ。
雪かきしてくると気づかないうちに身体が疲弊してどんどん動きも遅くなってくる。そうなると、もう雪の山にダイブするしかない。ダイブしてうずくまって30秒くらい死んだフリをする。実は気持ちがいい。
これもあれもと頼まれるうちに自分では捌ききれないタスクがたまっていることがあって、その本質はリスクを背負うということだ。
社会的な構造がそうさせている
仕事を任されることはリスクを背負うということという話をした。
冒頭では信用と信頼の話をした。つまり、信用、信頼とリスクはトレード可能なのだ。要は大きいリスクを背負うほど周りからの信用や信頼も大きい。
誰でも知ってるがその仕組みが企業の組織構造の中心にあると考えている。
結論から言うと、大きいリスクを抱えてまで管理職を目指す人って少数派だと思う。
もちろん結果的にそうなったという話は往々にしてあるが、自ら管理職になりたいっていう人はあまり聞いたことがない。
管理職はその責任の重さから周りの信頼も厚く、多くの報酬と権威を所持している。しかし、今の若手、少なくとも私の周りや職場では管理職を目指す人はほとんどいないとこの間、集計された。
周辺だけでなく、社会的に見ても『管理職を目指さない若者』、『出世意欲のない人たち』で顕著に表れている。上司に認められたい、会社で大きなことをして名誉を勝ち取りたいといった昭和ど真ん中の承認欲求システムでいまの労働をモチベートするのは軸がズレているように思う。
軸がズレたら立て直すしかないのだが、立て直そうにもズレていると認識しないとどこをどう直してもズレズレである。フリオ・ズレータは元千葉ロッテマリーンズでメジャーでも活躍したプロ野球選手であるが、今この話は関係ない。
今の管理職を見ると責任だらけで人によっては押し付け合いの人もいる。管理職という言葉や役割を根本的に変えていくべきなのかもしれない。と最近思う。
もう23時だ。
ああ。上司が何かを言いたそうな内容だ。
メールが1通送られてきそうな気配がする。
それではまた。
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