R5.6.15 浪費。あと美術批評家グリーンバーグの批評選集を読む前の知識整理。
助けてくれっ!
浪費癖
メンクリに通っていることからもわかる通り躁鬱病? の治療をしているのだが、時にその症状の1つに突発的な浪費をしてしまうものがあったりする。この浪費の波は月に1回高いものがやってきて、私を高台へと駆り立てる。
しかし高台などどこにもない。気付けば呑まれてしまい、私からはモノが抜けて何かが届き満たされるのを待つ身体だけとなる。ジャラジャラジャラジャラ。
いまだ読んでいない本の話だが國分功一郎『中動態の世界』なる本はこの状況とどうやって付き合うかという問いなのだろう。意志が強ければ波など起きない、そういう話ではない、波は起きてしまうのだから、その波について能動態受動態という考え方ではないやり方で波に巻き込まれる私の姿を知ること。
精神が不安定になると浪費してしまう。
それが繰り返されて、ついに家族に厳しめにお灸を据えられたのが今日の出来事であった。
不安定期間
精神が不安定になっている。講義に出ろ。出ない。
実習には行く。午後だけ大学に行く。でも単位は少ない。卒業があやういが、最近は午後ほうほうの体で実習にいくことばかりが私の限界であり、帰ってから夕方なのに昼寝をし、そのせいで寝るべき深夜に眠れず、とりあえず倒れるように寝てみて、ぼうっとした頭で実習に向かい。でも眠いから帰ったら寝る。5月下旬からこんな生活ばかりしている。
13日火曜の夜のこと。夜に寝たはいいが2時間も寝られず、追加の睡眠薬のためにリビングへ行ったら同居人のちろきしんらが会話をしていた。その相談ごとを聞きつつ、ゾルピデムが効くまで話していたのだが、なおのこと薬が効かない。追加するのもどうかと思い、焼酎のお湯割りをちょっとずつ飲み始めたのだが、いい具合に夜が深くなったためゴミ出しをすることに。
このあたりから記憶がすごく怪しい。もはや夢の中にいるかのようで、朦朧とした意識の中ダンボールを運んでいく。
目覚めたとき、最初に(あぁ、ゴミ出しをサボってしまった……)と思ったのだが、それは夢の中でゴミ出しをしたと思っていたわけであった。目覚めたちろきしんに対し、本当に為したかを聞いてやっと確信がもてた。
睡眠薬と酒の組み合わせはよくないと知っているが、寝れないときは試してしまうし、後悔してしまう。
上の浪費と同じように私を襲う精神的混乱の1つ。意志で乗り越える以外の選択を持つ必要性を切実に感じる。
ヤモリ
月代わりの実習、今週から始まったのは動物行動学の実習で、私の班はヤモリについて観察することになった。
このヤモリ(今はニシヤモリだけ)をあれやこれやの手段で観察して、どういう風に行動の指標を立て、レポートを作るのか、題材だけが先に与えられただけで暗中模索の状態である。
このヤモリを触っていると意外と愛着が湧いてきて、卒論を爬虫類、トカゲやヤモリを相手にしたいかなと考え始めている。学士課程だけの付き合いになるだろうが、モチベを保てる題材を見つけられてひとまず安心した具合。
あとは卒業するための単位をかき集めるのみ…………これがもっとも大変である。
グリーンバーグを読みたい(前編)
美術批評についてまったく詳しくなかったのだが、その美術批評―絵や彫刻の批評―の歴史においてグリーンバーグの名前が占めるのは不動の地位である。モダニズム絵画以降の批評といえばグリーンバーグを起爆点として語るのがやりやすいのではないだろうか。
そのグリーンバーグは名高い論文「アヴァンギャルドとキッチュ」においてその名を不動のものとした。
この論文はトロツキーとエリオットの影響を大きく受けている。アヴァンギャルドを革命的な、キッチュを大衆的なものとして、芸術を2分することによってアヴァンギャルドな芸術を用語するものである。それと表層的なレベルにすぎないがマルクスへの言及もある。
このアヴァンギャルドとキッチュの対比はモダニズム絵画の文脈から切り離してしまえばとても便利な概念であり、革新的なものと伝統的なもの、意識が高いものと低いもののような対比……おおむね作品に対してある良い悪いの分別のある側面を切り出せるわけである。つまり、差異を作ろうとするもの(相対化を生み出すもの)と、反復を繰り返すものの対比という面を。
後編
芸術に対して自己-批判性をグリーンバーグが考えるとき、そのモダニズム的な仕事を最初にしたのはカントであったと語る。カント『判断力批判』が提起したその遺産は今もなお有用である。
この自己-批判性が芸術に適応されたときに、おそらくグリーンバーグがメディウムの固有性というのを提起し、モダニズム運動はその固有性への還元をうながすものであると解釈されるような主張を生み出すのだろう。
先日で批評について考えたときにそのカヴェルが芸術批評の方法を日常言語学的に考えたときにカント『判断力批判』の名を挙げたことを指摘しておく。
カント『判断力批判』を読んだ人たちによるカント的な批評を意識するときに、グリーンバーグがどのように作品を読んだか知りたいわけである。
思ったより何も知らんかった。
私にとって作品や作者筆者というものは決して殺せるようなものではなく、常にテクストは(デリダ的な意味で自分自身で矛盾しているが故に)、読むものに様々なアイデアを与えてくれる源泉となってくれるものと思っている。作品に向い合うときに私への変化が促されていく。その作品やその者に帰属させられないようなことを言ってしまえるだろうか、それすらできないのなら……。