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人生の残り時間があまりにもなさすぎるなと思った話

あの日、10月14日、夕食をどこで食べればよいものかとソウル市内を歩きつつ、ハングルに囲まれた世界でああ韓国語も日本に帰ったらちょっとずつでいいからまた勉強を再開しようと思った瞬間がたしかにありました。

その24時間ほど前は、4年9ヶ月ぶりに再訪したトルコの調査旅行を振り返りつつ、トルコ語をちゃんとやっておかないとなあ、なんせ一番の自分にとってのメシのタネなんだし…と強く思っていたはずなのに、です。

こんなことまで書きましたしね。実際この記事の投稿、帰国直前のタイミングだったはずです。

そして帰国し、日本語関係の授業でまた長崎市内をうろちょろしている今はというと、日本語学バッチリ勉強しておこうという新たな決意をしているという。そうかと思えば「日本のことばと世界のことば」という題名の授業でとっさにペルシア語やエスペラントの例文を出せればよかったのに、最近すっかり離れてしまっていたものですから何も思い浮かばず、ああまたペルシア語とエスペラントのニューエク開かなきゃ、などと独り言を言っている。

ちょっといろいろなことに手を出しすぎなのでは?とツッコミの声も聞こえてきそうでアレなのですが。いろんなことに関心を持っておくことそれじたいはきっと悪いことではないはず…

その一方で、どれもなにもモノになっていないなと思う現実を見てしまうと、悔しいなと思うわけです。もっと人生時間があればよいのにと。

それでも時間は無常に過ぎていき、さあ帰ったら研究を進めよう…と思っていたはずなのに、いつの間にかYouTubeなどに目が行ってしまって結局何も進まなかったりするというこの愚行。

いつになったら脱却できるのでしょうか…と思いつつ、何か一つでもモノにしたいと思う木曜日の昼下がりでありました。

ハァー… 夕方のトルコ語講座の準備しょ。。。

あ。12月またアゼルバイジャン行くんでした。その準備m(吐血

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