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ドキュメンタリー映画「誰か記者はいないのか?烏賀陽がいる」 1,000円で配信  

<秋山浩之監督による作品解説>

主人公はフリージャーナリストの烏賀陽弘道(うがや・ひろみち)。

福島原発事故の発生直後から現在まで福島を継続的に取材する数少ない記者のひとりだ。原発事故は、核戦争に次ぐ核クライシス」というのが、米国の大学院で核戦略を学んだ彼の持論だ。

福島に通い続ける理由について彼は言う。

「原発事故被害の悲惨さは、時間を経て徐々に見えてくるもの。だからこそ10年、20年というスパンで記録し続けなければならない」。

映画は、フクシマに通い取材を続ける烏賀陽の活動に密着しながら、いまなお放射線量の高い帰宅困難エリアなどを含め、事故から10年以上経っても復興とは程遠い被災地の姿を浮かび上がらせる。

さらに原発事故に関していまなお残る疑問点について、烏賀陽が専門家を訪ね、メルトダウン事故は防げたのではないかという仮説を検証する過程を追ってゆく。


 
秋山浩之監督。2023年3月10日、福島県大熊町で。福島第一原発から2キロ。烏賀陽撮影。

<この作品を制作したわけ>

 私は30年あまり、東京の民間放送局でニュースやドキュメンタリー制作に携わってきた。

60歳を機に会社から距離をおき、フリーの映像作家としてインデペンデントな作品を手掛けたいと思った。

福島原発事故をめぐっては、事故直後は大手メディアもこぞって記者を送り込み、取材合戦を繰り広げていた。

しかし、熱しやすく冷めやすい大手メディアは、いつの間にか福島を継続取材することに冷めてしまい、いまではニュースでもめったに取り上げない。

大手メディアが持つこうした体質に内部から違和感を覚え、フクシマに対してある種の罪悪感を持っていた私は、その対極にいるジャーナリストに光を当て、真のジャーナリズムとはどうあるべきかを問いかけたかった。

主人公の烏賀陽弘道の深い洞察と鋭い歴史認識が、ひとりでも多くの人の心に届いてほしいとの思いでこの作品を制作した。

(烏賀陽より注)
秋山監督によると、本作品はこれからも烏賀陽の取材活動を取材のうえバージョンアップを重ね「20XX年版」が作られていく予定とのこと。 楽しみにお待ちください。

<秋山浩之監督略歴>

1962年 神奈川県大磯町生れ。 
1987年 慶応義塾大学卒業、TBSテレビ入社。報道番組・ドキュメンタリー等の制作を手掛ける。
2024年 退社し、インデペンデントの映像作家として活動を始める。

<主な作品>

激震・佐川急便事件(1991年)
暴力団新法とヤクザ(1992年)
パレスチナ・ガザ地区ルポ(1993年) 
グリコ森永事件 10年目の真実(1994年) 
ミャンマー スー・チー女史軟禁5年(同年) 
アフガン戦争とロシア兵(1995年)
旧ユーゴ 戦禍に響いた日本からのピアノ(1996年)
知られざる親日国ウズベキスタン(同年) 
ペルー大使公邸人質事件 幻の内部蜂起(1997年)   
チェチェン 隠された戦争(2000年) 
アフガニスタン戦争現地ルポ(2001年)
シルクロードの日本人伝説(同年)
日中国交30年 決断の握手(2002年) 
モスクワ劇場占拠事件(同年) 
緊迫イラク現地ルポ(2003年)
イラク大量破壊兵器疑惑の行方(同年)
事件報道・実名匿名だれが決める(2006年) 
著作権70年論争(2007年) 
戦時下の沖縄 最後の知事(同年) 
光市母子殺害 もうひとつの視点(2008年)
テレビマン村木良彦追悼(同年) 
ある名誉既存判決の波紋(同年) 
自己検証足利事件(2009年) 
考察 口封じ裁判(2010年) 
3・11大震災 記者たちの眼差し(2011年) 
末期がん・日隅弁護士の戦い(2012年) 
シリーズ憲法(2013年) 
シリーズ秘密保護法案(同年) 
みんなサルトルの弟子だった(2016年) 
特命 赤報隊を追え(2017年)  
テレビと女性 兼高かおる(2018年) 
生きていた座敷牢・沖縄精神障害者問題の闇(2019年) 
五輪実況とジェンダー(2021年)
テレビ史としての筑紫哲也(2022年) 
軍人スポークスマンの戦争 大本営発表の真実(同年) 
誰か記者はいないのか? 烏賀陽がいる(2024年)

<烏賀陽弘道からの言葉>

私はこれまで約14年間、福島第一原発事故の被害地を140回前後訪ね、そこに住んでいた住民たちの話を聞くという取材を続けてきました。その作業は現在進行形で今も続いています。現在私は62歳です。心身が健康なうちは未来もずっと続けるでしょう。

交通費や宿泊代など経費は自腹で払います。取材の成果をインターネット(YouTube、noteなど)で公開し、記事への課金や読者・視聴者のカンパで経費を賄います。

2011年3月11日の原発事故発生当時は新聞・テレビの社員記者・フリー記者あわせて100人以上が取材に群がっていたはずなのですが、次第に減り、発生10年を過ぎるころには、発生当日から取材を続ける記者は私を含めて3~4人に激減しました。発生当時に日本社会を覆ったあの混乱と恐怖を知らない若い記者も増えています。

原発事故発生当初、大半の記者は東京電力や首相官邸など、東京での記者会見に殺到しました。しかし私は会見取材にはまったく興味を持たず、まっすぐに福島県太平洋岸地方に向かいました。

そこが福島第一原発事故の「現場」だからです。

原発事故に限らず、報道記者にとって「現場」に立ち「当事者」(この場合は放射性物質の汚染から逃げ惑う地元住民や首長)に直接話を聞く以上に重要な仕事などありません。

それが可能なかぎり「直接情報」に近づく最短の道だからです。可能なかぎり正確に「現実」を知る最短の道だからです。

(記者会見場は『現場』では決してありません。そこには『間接情報』しかないのです)。

2011年の時点で記者の仕事を25年続けていた私には、当たり前のことでした。今も、その「記者として当たり前の作業」を続けているにすぎない、と私は考えています。

報道記者の仕事は「3つのR」に集約できると私は考えています。

・Report(知らせる)
=「民主主義社会を構成する人々が知るべきこと」を知らせる。
・Record(記録する)
=「後世の歴史のために現在を記録する」
・Review(豊かな視点を提供する)
=多様な文化・価値観を知らせ、言論を豊かにする。


私の福島第一原発事故の取材は、14年のうちに"Report"の領域を次第に出て"Record"の領域に入ってきたと感じます。後世の歴史のために、福島第一原発事故とその後遺症を記録する。未来の人々が「あの時何が起きたのか」を知るために、歴史を書く。そんな「歴史家」に近い作業になってきたように思います。

福島第一原発事故による汚染と破壊は2025年現在もなお進行中です。

2011年3月11日午後4時36分に政府が発令した「原子力緊急事態宣言」は今なお解除されていません。

故郷にも我が家にも帰れないまま「避難者」の統計から外された人が多数います。重篤な汚染のために集落や地区がまるごと立ち入り禁止に封鎖されたまま、我が家や故郷を奪われた人々が多数います。

「除染」を名目に、学校や商店街、民家が解体されて更地にされ、街がすべて煙のように消えてしまいました。そこで暮らした人々の「日常の風景」が街ごと消去されてしまうのです。

 福島第一発事故がもたらした破壊は、10年以上の歳月をかけて、ゆっくりと姿を現したのです。

 私の手元には、そうした原発事故被害地の14年間の変貌を記録した写真が約15万点、ビデオが数百時間分あります。それはまだまだ増えていくことでしょう。

「戦争に次ぐ核クライシス」である福島第一原発事故への私の取り組みは、あまりにも微力で、ゾウに立ち向かうアリのような錯覚を持ちます。

そんな困難な状況のなか、自身も優れた映像ジャーナリストである秋山浩之監督が私の仕事に興味を持ってくださったことは、望外の喜びというほかありません。秋山監督と、日ごろ私の取材を支えてくださる読者・視聴者のみなさんに心からの御礼を申し上げます。

<烏賀陽の略歴>

1963年、京都市生まれ。1986年に京都大学経済学部を卒業し、朝日新聞社に入社。名古屋社会部、ニュース週刊誌「AERA」編集部を経て2003年に早期定年退職。フリーランスの報道記者になる。1994年、米国コロンビア大学国際公共政策大学院(the School of International and Public Affairs )に自費留学し、国際関係論で修士課程を修了。専攻は軍事学、核戦略。
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<烏賀陽へのカンパ送付先>

SMBC信託銀行 銀座支店
普通 6200575 ウガヤヒロミチ
「note」のサポート機能でも烏賀陽へのカンパが送れます。

ドキュメンタリー本編は以下の有料ゾーンにリンクがあります。
YouTubeのURLは秘密厳守をお願いします。
SNSなどで流さないでください。
無料で視聴できてしまいます。
料金を払っていない人にURLを教えると、著作権侵害で法的な問題になりますのでご注意ください。

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私は読者のみなさんの購入と寄付でフクシマ取材の旅費など経費をまかないます。サポートしてくだると取材にさらに出かけることができます。どうぞサポートしてください。