ウクライナ戦争を理解する歴史知識4 なぜプーチンはウクライナを 「ナチ」「ファシスト」と呼ぶのか 第二次世界大戦、ドイツ・ソ連戦争期 被害と加害の記憶をめぐり今も止まぬ論争 ウクライナ戦争に関する私見17 2022年12月6日現在
今回は第二次世界大戦時代のウクライナの話をする。
1941年6月22日、ナチス・ドイツがソ連に攻め込んだ。ドイツ側では「バルバロッサ作戦」という。
1939年にナチスがポーランドに侵攻して英仏が宣戦布告、第二次世界大戦が始まって2年が経っていた。
当時、ウクライナはソ連の「一地方自治体」になっていた。1922年にウクライナをソ連に併合する内戦は終結し「ソビエト・ウクライナ」になっていた。そこにナチス・ドイツが攻め込んできたのである(下の地図の赤いエリアがソ連。ポーランドが消滅する前)。
(巻頭写真:1941年、バルバロッサ作戦でソ連に侵攻したドイツ軍兵士。 Source: NARA/U.S. Department of Defense)
●欧州の大半はナチス・ドイツの支配下に
ちょうど1年前の1940年6月22日、フランスはドイツに降伏していた(独仏休戦協定)。現在のフランスからポーランドまで、欧州の大半はナチスドイツの支配下に入っていた。欧州でドイツと戦う主要国はイギリスだけになっていた。
フランスの敗北後、同盟国のイギリス軍はドーバー海峡を渡って欧州から撤退。それを追って同年7月10日から10月31日、ドイツはイギリスに空軍戦を仕掛けたが、制空権を取れなかった。
ドーバー海峡の制空権が取れないと、海を渡ってイギリスに上陸軍を送っても、海上で航空攻撃を受け、撃沈されてしまう。
イギリス上陸侵攻を諦めたヒトラーは翌年、戦線を西から東へ反転させた。それがソ連侵攻である。
(下の地図は1942年11月段階でのナチス・ドイツの支配地域。ドイツがソ連に侵攻してから1年半後)
ちなみに、まだアメリカは欧州でも太平洋でも参戦していない。大日本帝国は、1937年に中国との戦争を始めて4年目。しかし欧米との戦争には入っていなかった。
日米両国が第二次世界大戦に参戦するのは、独ソ戦が始まって半年後、1941年12月7日に日本がハワイの真珠湾を奇襲攻撃してからだ。
ちょうどそのころ、ロシアには厳しい冬が訪れ、短期決戦を想定して冬の装備がなかったドイツ軍は、勢いが衰え始めていた。日本軍が真珠湾を攻撃した1941年12月は、ドイツ軍がモスクワ攻略を諦めて後退し始めた時期と重なる。
●スターリンは油断 ナチスの奇襲攻撃が成功
独ソ戦が始まった当時、ドイツとソ連は「独ソ不可侵条約」で事実上の同盟関係にあった。ドイツは条約を裏切っての奇襲攻撃だった。
当時スターリンは「ドイツの侵攻はない」と信じ込んでいて、完全に虚を突かれた。しかも、それまでの「大粛清」(前回の本欄記事参照)で、ソ連軍(赤軍)は中核になる将校を失い弱体化していた。
ソ連軍は当初敗退を重ね、ドイツ軍は首都モスクワまで約40キロに迫った。1941年末までにモスクワは陥落、ソ連は敗戦するとさえ言われた。
しかし、ソ連軍は執念でドイツ軍を押し戻した。そして1945年4月には東欧→ドイツ→ベルリンへと反攻。ベルリンの総統府を包囲してヒトラー自殺→ナチスドイツ降伏にまで追い込んだ。
つまり、ナチス・ドイツの首都ベルリンを包囲・陥落させたのは西から攻めてきた英米中心の連合軍ではない。ソ連軍である。「第二次世界大戦で最大の犠牲を払い」かつ「ナチスを降伏に追い込んだ」ことは、プーチン大統領の時代になった現在も、ロシアが誇る歴史である。毎年5月9日の戦勝記念日(ナチス・ドイツが降伏した日)は国威発揚の儀式になっている。
ちなみに第二次世界大戦後、東欧とドイツの東半分(東ベルリンを含む)がソ連の影響圏=共産主義国になったのは、そこをナチス・ドイツの占領から軍事的に解放したのがソ連軍だったからである。
●現在のウクライナ国境はスターリンが決めた
第二次大戦期のウクライナの歴史で、現在2022年のウクライナと関係が深い点といえば、現在のウクライナの国境線は第二次世界大戦が終わったときにソ連が決めた国境線だということだ。
現在のウクライナの国境線は、独ソ戦でソ連軍がナチスドイツを押し戻し、領土を奪回(ついでに東欧諸国の領土をソ連に併合)する過程で形作られた。ナチス・ドイツが占領していた旧ポーランド領、ルーマニア、チェコ領などで、ウクライナ人が居住していた三カ国の国境地帯を、ソ連が統合して国境線を引いた。
比較のため、ナチス・ドイツとソ連がポーランドを占領分割する前後の地図を見てみよう。
上が第一次世界大戦終了後。つまり第二次世界大戦前。
下が第二次世界大戦が終わって、ソ連がドイツを押し戻してソ連の領土が確定した時である。ポーランド領、チェコ領、ルーマニア領がざっくり削られ、ソヴィエト・ウクライナへ編入されていることがわかる。北隣のベラルーシもソ連の一部としてポーランドから領土を割譲されている。つまりソ連がナチス・ドイツを押し戻る過程で、ついでにポーランド領をぶんどって国境線を西に広げたということだ。
現在の「ウクライナ」という国の西部には、この「1939年までポーランド領だった地域」「ルーマニア領だった地域」「チェコだった地域」が含まれている。
●リビウはソ連のポーランド侵攻でウクライナ領に
前に「独ソ戦が1941年に始まるまで、ソ連とナチス・ドイツは事実上の同盟関係にあった」と書いた。その同盟の始まりが1939年8月に結ばれた「独ソ不可侵協定」(German-Soviet Nonaggression Pact)である。それぞれの外相の名前をとって「モロトフ・リッペンドロップ協定」(Molotov-Ribbentrop Pact)とも呼ぶ。
この「独ソ不可侵協定」には公開されない秘密議定書があった。
独ソ両国:ポーランド侵攻。
ソ連:バルト3国併合。フィンランド冬戦争。ルーマニアの領土割譲。
つまり「ケンカにならぬよう、独ソ両国にはさまれた国々のナワバリを事前に決めておいてから、それぞれ軍事侵攻・占領しましょう」という、ヒトラーとスターリンの間の秘密の約束である。
無茶苦茶な話である。独ソに侵略・占領される国はたまったものではない。真っ先に犠牲になったのがポーランドだった。
独ソ不可侵条約が締結された約1週間後の1939年9月1日、ナチスはポーランドに西側から侵攻。第二次世界大戦が始まる。
するとソ連は同年9月17日に東側から同国に侵攻、ナチスとポーランドを分割。ポーランドは消滅した。
同年11月30日には、ソ連はフィンランドに侵攻(冬戦争)。ソ連は国際連盟を除名された。
翌1940年6月にはソ連はバルト3国に侵攻・併合。
侵略に次ぐ侵略である。当時は、日独伊3国にソ連を加えた4国同盟の可能性すらあった。
下の地図は1939年9月、ポーランドが独ソ両側に侵略されて消滅した後を示している。
真ん中の赤い線が「モロトフ・リッペンドロップ線」と呼ばれるポーランド分割後のナチス・ドイツとソ連の国境線だ。
右下部・黄緑の部分が現在のウクライナ領。Lvov(リビウ)などの現在のウクライナの都市の名前が見える。かつてのポーランド領がソ連の軍事占領によってソビエト・ウクライナ領になったことがわかる。この地域は1991年に独立したあとも「ウクライナ」国の一部として残った。
●冷戦時代はウクライナはソ連の一部で固定化
ソ連が軍事力で決めた国境線とはいえ、第二次世界大戦後はポーランド、ルーマニア、チェコ・スロバキアとも「東側諸国」としてソ連を盟主とする社会主義陣営に組み入れられたため、紛争にならなかった。
ウクライナも「ソヴィエト・ウクライナ」としてソビエト連邦の「構成国」になった。ロシア、ベラルーシ(白ロシア)と並んで、国連総会で一票を持っていた。しかし実態はソ連の「地方自治体」だった。
そして戦後、東西陣営の間で冷戦が始まり、ウクライナは「ソ連の一部」として固定されたまま46年が過ぎた。ソ連が国境線の変更を気にする必要のない、ある意味「安定」した時代である。
それが流動化したのは、1991年にソ連の崩壊ととも「ウクライナ」が国として独立した時だ。ウクライナは主権国家になった。そしてロシアの影響圏を離れようと、政治的に西欧に接近した。それから事態が一気に複雑化した。
1954年、モスクワはクリミア半島のウクライナへの帰属を決めた。ソ連当時なので、モスクワ政府にすればあくまで国内の「地方自治体」を移管しただけのつもりである。「東京ディズニーランドが千葉県に属するのか、東京都に属するのか程度の違い」と例えると言いすぎだろうか。
しかし、このクリミア半島帰属の見解の食い違いから、ウクライナ独立後「クリミア半島はロシアに帰属するのか、ウクライナなのか」が紛争になった。2022年に始まるウクライナ戦争でもクリミア半島は大きな争点である。
●人類史に残る残虐な殲滅戦
第二次世界大戦に話を戻す。
同大戦の中でも、ナチスとソ連の戦争は、歴史に残る大規模かつ残虐な「殲滅戦」として知られている。
戦線は南北3000キロという莫大な長さである。これはほぼ日本列島の長さに匹敵する。ここに双方が戦車、重火砲で武装した数百万の兵力を投入して激突した。そんな破壊と殺戮のローラーが、北はフィンランドから南はコーカサスまで往復した。
大飢饉・大粛清という自国政府(スターリン)による殺戮が収束してから、ナチス・ドイツがソ連に攻め込んできた1941年6月まで、わずか2年ほどしか経っていない。ソ連の民衆にとっては、息つく間もない苦難の連続である。
独ソ戦の戦史としての詳細は、それだけで本が一冊書けてしまう量なので、ここでは深入りしない。詳しく知りたい人は下記「独ソ戦」を推薦する。
第二次世界大戦での日本の死者は非戦闘員を含めて300万人前後である。それだけでも悲惨な大量死なのだが、ウクライナではその倍以上の685万人が死んだ。ソ連全体では1128万人である。日本人の記憶にある「戦争の惨禍」のスケールをはるかに超えている。
独ソ戦が悲惨な戦争になった理由はいくつかある。
①ナチス・ドイツはナチズム、ソ連は共産主義(コミュニズム)と、どちらも人工的なイデオロギーによって運営される国だった。どちらも自らの政治体制を「人類の進歩」と自称した。
②両国とも独裁体制だった。ドイツはヒトラー、ソ連はスターリンという独裁者に率いられていた。
③第二次世界大戦が始まる前から、両国とも非戦闘員の殺戮を含めた政治的暴力を使った。
ナチスは人類を「民族」によって区分し(レイシズム)ユダヤ民族やスラブ民族を「抹殺または支配されるべき民族」としてその主な標的とした。
ソ連は人類を「階級」によって区分し、先立つ「大飢饉」や「大粛清」で「富農」「ポーランド軍事組織」を敵として虐殺した。
④スターリンは、ナチスの侵略への抵抗を、ナポレオンのロシア侵攻からの「祖国防衛戦争」になぞらえて「大祖国戦争」と喧伝し、国民の愛国心を煽った。軍には降伏を許さなかった。
ソ連軍が撤退したあとは、敵に利用できるものが何も残らない「焦土作戦」を展開。農村を焼き払い、工場や都市を破壊して撤退した。地元民にすれば、自分の街が侵略軍と自国軍に2回破壊されることになる。
●「ウクライナ」は植民地で「ロシア」は宗主国
さて、この独ソ戦を空間としての「ウクライナ」の視点から見てみよう。
結論を先に言えば、ウクライナにとっては、モスクワのソ連政府もナチスドイツも、食糧など資源を略奪に来た侵略者にすぎなかった。
ウクライナはソ連の一部になっていた、と冒頭に書いた。これはウクライナの視点からすると「4年間内戦で抵抗したのに、モスクワを中心とするソ連共産党に武力で制圧されてしまった」という事実を指す(ロシア革命のあと、ウクライナで内戦が終結してソビエト・ウクライナとして併合されたのは1922年)。
そしてウクライナは産出する穀物をロシアに収奪された(他にも石炭、鉄鉱石など天然資源も)。1930年代、ウクライナを含むソ連全体で300万人以上が餓死する大飢饉が起きても、ソ連は穀物を外国へ輸出し続けた。西側諸国は「世界恐慌」で食料不足に陥っていた。ソ連はウクライナの穀物を売って外貨を稼ぎ、工業化の原資にした。
私見だが、これはソ連という一国の中に「宗主国」と「植民地」が併存していると考えたほうがわかりやすい。
モスクワやサンクトペテルブルクを中心とする「ロシア」が宗主国で「ウクライナ」が植民地だ。ロシアが「支配・収奪する側」でウクライナが「される側」である。
「中心部」と「周辺部」と言い換えれば、これはソ連だけでなく、あちこちの国にあった地政学的な構造ではないだろうか。
かつての日本でも、首都=東京という「中心」と、食糧生産地帯である「東北」や石炭生産地帯だった「九州」は「中心部vs周辺部」の構造である。ソ連のロシア・ウクライナの関係と相似形を描いている。食糧とエネルギーという戦略物資の生産地は、首都で決められた国策の犠牲にされる。工業化の初期では、そんな現象が世界のあちこちで起きる。
この「ロシア」=宗主国vs「ウクライナ」=植民地という構造を応用すれば、2022年に始まったウクライナ戦争をめぐる両国民の感情も理解しやすいのではないかと思う。
●ナチス侵攻の狙いもウクライナで生産される食糧
つまり、ウクライナにとっては、ナチス・ドイツが攻め込んできて占領したといっても「支配者がボルシェビキからナチスに交代しただけ」である。
著作「ブラッドランド」「ブラックアース」で、ウクライナを含めたソ連とドイツに挟まれた東欧の悲劇的な歴史を1次史料に基づいて記述したティモシー・スナイダー(イエール大学教授)は「ウクライナは独ソ戦の戦場であるだけでなく、原因そのものでもある」と述べている。
(注)"Bloodlands"とはウクライナ、ベラルーシ、ポーランド、バルト三国など、ドイツ・ソ連という二大ランドパワーにはさまれた地域を指す。スナイダーは、この地域に両国の政治的暴力の犠牲者が集中していることから「Bloodlands=流血地帯」という名前をつけた。Black Earthはウクライナの黒い土壌のこと。
シュナイダーが「ウクライナは独ソ戦の原因そのもの」と指摘する理由は、ナチスドイツがソ連に侵攻した大きな目的が、ウクライナで生産でされる食糧・穀物だったことだ。
ちなみに、もうひとつの大きな理由はカスピ海沿岸のバクー油田の石油だ。
ナチスは、食糧やエネルギー資源を生産する地域をドイツの支配下に置く計画を立てていた。その正当化として「生存圏」(Lebensraum=レーベンスラウム)という概念を使った。
「国家が自給自足を行うために必要な、政治的支配領域」を指す。ナチスが他国の侵略を正当化するのに使った理屈は「自国の自衛と生存のため」であり、その中心になった概念が「生存圏」だった。
ちなみに,この「生存圏」の概念を大日本帝国がアジアに応用したのが「大東亜共栄圏」である。
ヒトラーは1925年の自著「わが闘争」で早くもこの「生存圏」の必要性に言及している。
第一次世界大戦(1914〜1918年)でドイツは、イギリスの海上封鎖で国民が飢餓に陥り、約76万人が餓死した。
1940年、海軍大国イギリスを降伏させることを諦めたナチス・ドイツにとって、第一次世界大戦の悪夢の再来を防ぐ鍵がソ連、中でもウクライナだった。
しかし、ウクライナにもソ連にも「地元民」がいる。どうするつもりだったのか。ナチスが立てた計画は「抹殺」だった。
●ナチスをボルシェビキからの解放者と誤解
独ソ戦の歴史を、2022年現在に視点を置いて見てみる。すると、この第二次世界大戦中に起きた出来事が今でも、ウクライナをめぐる論争に尾を引いていることがわかる。
ナチス・ドイツが侵攻してきたとき、ウクライナは1930年代の「大飢饉」「大粛清」の惨劇の傷が癒えていなかった。その被害があまりにひどかったため、当初ウクライナでドイツを「ボルシェビキ(ソ連共産党)からの解放者」と考える地元民が出たことは無理からぬことに思える。
このときウクライナでドイツ軍の占領統治に協力した地元民の数は、ドイツ軍に入隊した30万人を含め100万人である。ここには、占領統治の「下請け」に使われたウクライナの地元警察が含まれている。
=出典:”Ukraine under Nazi Rule 1941-1944."
ウクライナの名誉のために付言すれば、この100万人という数字は、ソ連軍に参加してナチスと戦ったウクライナ人450万人に比べれば少ない。
●ロシア政府「ウクライナはナチ協力者」
しかし、2022年の現在もロシア政府は、ウクライナ政府との対立場面になると「当時ウクライナはナチスドイツに協力した」=「ファシスト」であるというプロパガンダを使う。ロシア政府は「ウクライナはファシスト・ネオナチに支配されている」と非難し、ウクライナ政府は「そんな事実はない」と否定する。
一例をあげよう。下は2014年の「マイダン革命」時に在日ウクライナ大使館が日本語で出した声明である。第二次世界大戦時の記憶をめぐって、両国政府の間で今なおプロパガンダ合戦が続いていることがわかる。
●ウクライナ民族主義過激派による虐殺
当時のウクライナには武装した民族主義過激派グループがいて、自分たちがウクライナ領と信じる領土から他民族を排除する、民族浄化的な虐殺をポーランド系やユダヤ系住民相手に起こした。
この歴史的事実も、現在のロシアとの対立局面でのウクライナではタブー視される。
1930年代から、当時ポーランド領だったリビウ周辺で反ポーランド武装闘争を展開していた「ウクライナ民族主義者組織」(OUN)はその代表だろう。
その指導者だったステパン・バンデラ(1909〜59)は現在もウクライナの右翼・民族主義者の間では英雄である。反対に、ロシアやポーランドとの間では今も歴史論争の争点である。
下の一方、ウクライナ映画「バンデラス」(2018年)でもわかるように、今でも"Banderite"(バンデラ主義者)という名前はウクライナの「民族主義者」「独立派」「反露派」の別名になっている。一方で、親露地域ドンバス2州の住民が「バンデリスト」を「ナチス」「ファシスト」「虐殺者」と同じ意味に使っていることが劇中に出てくる。親露派と反露派でその言葉の理解が正反対である。
バンデラは、ナチス・ドイツをウクライナをソ連から解放する勢力として歓迎した。独ソ戦が始まった直後の1941年6月30日、ウクライナ国家の独立をリビウで宣言した。
リビウはつい2年前の1939年までポーランド領だった。独ソ両国によってポーランドが分割された結果、ソビエト・ウクライナ領になっていた。
ところがナチスはウクライナの独立を許さず、バンデラはゲシュタポに逮捕されてドイツ国内の強制収容所に送られてしまう。残ったOUNは武装パルチザン組織「ウクライナ蜂起軍」(UPA)を結成してナチスドイツ、ソ連、ポーランド亡命政府と「自分以外は全部敵」という絶望的なレジスタンス戦を展開した。
「ウクライナ蜂起軍」は、ポーランド系住民とウクライナ系住民が混在するウクライナ西部の森林・山岳地帯を活動地域にしていた。1943年から45年にかけて、この地域でUPAに虐殺されたポーランド系住民は7万〜10万人と見られている。またユダヤ系、チェコ系住民も犠牲になった。ポーランド系も報復で1万から2万人のウクライナ系住民を殺害した。
バンデラ自身はナチスに逮捕されてドイツ国内の強制収容所にいたため、こうした虐殺に直接は関与していない。ナチスには最後まで協力を拒否した。それどころか、第二次世界大戦が終わった後も、ソ連の一部になった故郷・ウクライナには戻ることができないまま、ドイツで1959年にKGBの差し向けた刺客に暗殺された。
こうしたウクライナ民族主義や独立運動の「暗部」は「物語 ウクライナの歴史」(中公新書)のような包括的な歴書書でも、出てこない。初心者向けのウクライナ史の本にはまず出ていない。ウクライナ政府公認のネット情報にも出てこない。それだけ隠したい「暗部」なのだろうと邪推せずにいられない。
●独立後、ウクライナ政府はバンデラを名誉回復
ややこしいのは、1991年のウクライナ独立後、国民のナショナリズム感情(多くの場合は反ロシア感情)の高まりに便乗して、ウクライナ政権がバンデラの名前をポピュリズムに利用し始めたことだ。
2010年:オレンジ革命後に就任した反露派のユシチェンコ・ウクライナ大統領はがバンデラに「ウクライナ英雄」の称号を授与。
ユダヤ系住民が反発。裁判所は「英雄」の称号を取り消し。
2014年:マイダン革命後、反露派のポロシェンコ大統領が当選。バンデラやOUN/UPAを「ウクライナ独立の英雄」として名誉回復する法律を制定。
2016年:首都キエフの「モスクワ通り」がキエフ市議会によって「ステパン・バンデラ通り」に改名。
●ロシアとポーランドを刺激
このウクライナのバンデラ名誉回復の動きは、バンデラを「戦争犯罪者」とみなすロシア政府を刺激した。
当然ながら、虐殺の被害者であるポーランドも愉快には思っていない。特に現在のポーランドは右派・民族主義政党「法と正義」が与党である。
ポーランドでは毎年7月11日、このUPAによる虐殺を記憶する式典が、大統領も出席して開かれている。
2016年には虐殺を描いた「ヴォリン」という映画が公開された。
こうした第二次世界大戦中のUPAによる虐殺をめぐる歴史論争は、ウクライナとロシアだけでなく、ポーランドとの間で「喉に刺さった魚の骨」のようにずっと残っている。火がついたままの炭のようにくすぶっては発火点になる。ウクライナ・ポーランド両国ともナショナリズムとポピュリズムが盛んなだけに発火しやすい。現在はロシアの軍事侵攻という大きな暴虐を前に、ポーランド側が沈黙しているにすぎない。
●政争の具にされ実態以上に大きくなったバンデラの名前
とはいえ、UPAの勢力は3〜5万人、多めに見積もった史料でもせいぜい10万人である。前述のソ連軍に参加してナチと戦ったウクライナ人450万人と比較すると、ウクライナ地元民の中ではいかに少数派、小さなグループにすぎなかったかがわかる。
前述のプレスリリースでも、ウクライナ政府は2014年の大統領選での右翼勢力の得票率は1.86%にすぎなかったと主張している。今も昔も「極右」はウクライナでは少数派にすぎないということだ。
その名前が対立するロシア・ウクライナ・ポーランド政府間の論争になり、マスメディアが取り上げるので、その実態以上に過剰にプレゼンスが大きくなる。私はそう考える。
●ロシアは今もウクライナを「ナチス」「ファシスト」と攻撃
さらにロシアとウクライナの対立の中で、ロシア政府が「ナチス」「ファシスト」とウクライナ政府を攻撃・宣伝する。2022年にウクライナに軍事侵攻を始める理由を、プーチン大統領はじめロシア政府は「(ウクライナの)非ナチ化」と形容した。こうしたプロパガンダが重なると、マスメディアではウクライナの極右のプレゼンスが実態以上に大きく見える。
●極右団体はマスコミの注目を浴びやすい
構成員1~2000人前後にすぎない極右民兵組織「アゾフ連隊」がウクライナ軍(総員約21万人)の中核組織であるかのように国際ニュースの注目を浴びる現象にも影響が見える。
なぜこうしたウクライナの極右・民族主義が実態以上にプレゼンスが大きくなるかというと、白人至上主義やテロ、レイシズムとの関連で国際ニュースになりやすいからだ。
2012年にポーランド系ドイツ人研究者のグジェゴス・ロゼリンスキー・リーベがウクライナを訪問して国内数カ所でバンデラとUPAの歴史についての講演を開こうとしたところ、会場に右翼団体がデモに押しかけ、キャンセルせざるを得なくなったと報道に出ている。
ロゼリンスキー・リーベの主著はバンデラやUPAについての詳細な歴史書'Stepan Bandera: The Life and Afterlife of a Ukrainian Fascist: Facism, Genocide, and Cult'である。ここにはUPAのポーランド系・ユダヤ系住民への虐殺などが詳しく述べられている。
ここで学べることは、ウクライナ人による虐殺は、今も右翼団体の妨害によって、論争そのものが「タブー」にされている、ということだ。
こうして論争がこじれにこじれたところに、2022年のロシアの軍事侵攻が追い打ちをかけた。「ロシア許すまじ」「ウクライナがんばれ」の論調で、ネットだけでなく西側のマスコミは頭に血が上っている。
ウクライナ人によるポーランド人の虐殺や、ナチス協力の事実を指摘しただけで「軍事侵攻を肯定するのか」「親ロシア派」「親プーチン支持者」と、的外れなレッテルが貼られる。特にツイッターなどSNS、ネット上はひどい。バイアス抜きに歴史上の事実を扱う議論なのに、大衆の感情的な発言が轟音になって妨害する。たいへんやりにくい。
●ポーランド系・ユダヤ系住民の虐殺は1930年代から
いうまでもないことがだ、当時のウクライナやソ連国内で吹き荒れていた政治的暴力の凄まじさを考えれば、ウクライナ民族主義者の虐殺だけが大きく脚光を浴びるのはフェアではない。
ソ連軍に入ってナチスと戦ったウクライナ人が450万人いる一方、ドイツ軍に入隊したり地元警察員としてナチスに協力したウクライナ人が100万人いることは前に述べた。
前々回本来で述べたように、1930年代にウクライナはじめソ連国内で「大飢饉」(300万人を超えるウクライナ人が餓死)が始まったとき、現地のNKVD(KGBの前身)は「ポーランド軍事組織の陰謀で飢餓が起きた」というフェイクニュースをでっち上げた。
その取り締まりとして「ポーランド作戦」が実行され、ポーランド系住民は銃殺されたり、シベリアの強制収容所に送られたりした。
ウクライナにはソ連在住のポーランド人60万人のうち最大の70%が住んでいた。1937年からの2年間で、5万5928人が逮捕され、4万7327人が銃殺された。ベラルーシでも6万人以上のポーランド人が処刑された(スナイダー『ブラッドランド』)。
●ナチスはソ連への報復としてユダヤ人迫害を扇動
そうした民族虐殺や大飢饉・大粛清と連続して、ナチスが侵攻してきた。
支配者が変わると、標的になる民族もポーランド人からユダヤ人に変わった。ナチスは占領地のユダヤ系住民を「絶滅」させる計画だったからだ。
1941年9月26日、キエフがナチス・ドイツに陥落した。その3日後の同月29日、ナチスは同市のユダヤ系住民を集めて、同市北西部の「バビ・ヤール」という渓谷に連行。崖の縁に並べて銃殺、死体は渓谷底部に埋められた。銃殺は36時間続き、2日間で3万3771人のユダヤ系市民が殺された。バビ・ヤールでは、ナチスの占領が終わるまでに約10万人が殺害されたと推定されている。こんな虐殺が占領地の各地で起きた。
(下:2020年、バビ・ヤール虐殺の追悼式典に出席したウクライナのゼレンスキー大統領。自らもユダヤ系)。
不幸なことに、ソ連の民衆の間では「ボルシェビキはユダヤ人に支配されている」という偏見があった。ソ連共産党=ユダヤ人陰謀説である。ナチスはそれを利用した。大飢饉・大粛清による被害の「報復」として、ユダヤ人を迫害するよう占領地の住民にけしかけた。
●占領地の現地警察が虐殺の「下請け」に
こうしたユダヤ人虐殺の「下請け」に使われたのは現地人の警察官だった。前述の「ナチスに協力した100万人」にはこうしたユダヤ系市民の殺害要員としての現地警察官の数字が含まれる。
こうした「ナチスドイツへの協力がいた」というウクライナの歴史の暗部を、現在のロシア政府は拡大解釈して軍事侵攻の正当化に使っている。現在のウクライナを「ナチ」「ファシスト」と呼ぶことで、77年の隔たりがある第二次大戦の記憶を意図的に現在のウクライナにダブらせようとしている。
●大日本帝国はヒトラーに2回裏切られた
最後に、日本の第二次世界大戦史と、独ソ戦の歴史の接点を書いておく。
「宿敵」だったはずのナチス・ドイツとソ連の握手「独ソ不可侵条約」は世界中にショックを与えた。特に、1936年にドイツとソ連を仮想敵国にした「日独防共協定」を結んでいた大日本帝国はドイツに裏切られた形になった(翌年イタリアも参加)。防共協定は無効化した。
その後、1940年9月27日に「日独伊三国同盟」、1941年4月13日に松岡洋右外相とスターリンがモスクワで「日ソ中立条約」を結んで日本の立場は挽回したかに思えた。
が、日ソ中立条約締結後わずか2ヶ月でドイツがソ連に攻め込んで、日本はまたしてもメンツを潰される。日本はナチス・ドイツに2回裏切られた計算になる。
日本はドイツと同盟国なのだが、独ソ戦開始後も、東からソ連を攻撃する選択は取らなかった(太平洋戦争で手一杯だったということもあるが)。ヒトラーも日本の応援を当てにしていなかった。結局、日本とソ連が戦争状態にになるのは、日本の敗戦の1週間前、ソ連が日本に宣戦布告した1945年8月9日である。
●独ソ不可侵協定とノモンハン事件の関係
時系列順に興味深い事実を並べてみよう。
<1939年>
5月11日:満州国とモンゴル人民共和国の国境でソ連と日本軍が武力衝突。「ノモンハン事件」。ソ連側では”Бои на Халхин-Голе”(ハルハ川の戦闘)。
8月23日:独ソ不可侵条約締結=ドイツがソ連を同盟国に選ぶ。日独防共協定が無効化。
9月1日:ナチス・ドイツ。ポーランドに侵攻。第二次世界大戦始まる。ソ連は静観。
9月15日:ノモンハン事件で日ソが停戦合意。
9月17日:ソ連、ポーランドに侵攻。
9月28日:ポーランドの分割終了。
モスクワの視点からすると
①大日本帝国との戦争(ノモンハン事件)
②ナチスと握手
③ポーランド侵攻・占領
は実は連続しているのだ。
当時スターリンは、東西から自国が挟撃されるという不安にかられていた。その西側にいた「敵」がポーランドとドイツであり、東側にいたのが満州国で国境を接する大日本帝国だった。スターリンはポーランドがドイツと結託して自国を攻める可能性を懸念していた。
スターリンからすると、こういう順番になる。
モンゴル・満州国国境で日本と武力衝突。
↓
ドイツと手を結ぶ
↓
敵でなくなったドイツがポーランドに攻め込むのを黙認する
↓
日本軍を圧倒。ノモンハンの戦争を終結させる
↓
安心してポーランドに攻め込む。
↓
潜在敵国3国のうちポーランドは消滅。日本には武力で圧倒。
つまり、約4ヶ月のうちに、スターリンが心配した仮想敵国3カ国のうちポーランドと大日本帝国は「心配しなくてよい」ことになった。
●ランドパワー・ソ連の国際安全保障感覚
ソ連・ロシアは「ランドパワー」(大陸国家、陸の大国)の代表である。地球上の陸地の7分の1という広大な領土を持っている。
領土が広く、国境線が長いぶん、隣接する国の数が増える。そうした隣接国が強大化して自国に侵略してこないよう、分裂・弱体化を誘うことがロシア帝国〜ソ連〜ロシアに共通した安全保障政策であることは本欄でも何回か述べた。
1939年のスターリンにとっての「厄介な隣国」はポーランド、ドイツ、大日本帝国だった。
日本史や日本側の戦史研究では、ノモンハン事件をソ連・モスクワやヨーロッパの視点から見ることは稀である。「アメリカとの戦争の前に起きた、ソ連との国境紛争」ぐらいの軽い認識しかない。視点が日本側に偏っているからだ。
しかし、視点をモスクワ・ソ連(スターリン)の側に置くと、歴史がまったく違って見える。ノモンハン事件は、独ソ不可侵条約、ポーランド侵略とセットなのである。これに気づいている日本側研究者は少ない。
1939年は「大飢饉」「大粛清」と1930年代に連続したソ連国内の政治的暴力が収束に向かい、ソ連指導部の関心が外国に転じたころである。その主要な関心事として、当時、同じランドパワーのライバル、ドイツがナチスによって強国としてカムバックしたきたという要素があった。
そうした「ビッグ・ピクチャー」から見ると「ウクライナも大日本帝国も、ナチス・ドイツやソ連という大国の戦略に翻弄されていた」という実態が見えてくる。
<注1>本稿の参考文献としてティモシー・スナイダー(イエール大学教授)の著作「ブラッドランド」「ブラックアース」を挙げる。
「大飢饉」「大粛清」という、長らく秘密にされてきたソ連史の暗部である大虐殺の規模や詳細を、ロシア語やポーランド語の一次資料から積み上げて実証した労作である。
<注2>今回も戦争という緊急事態であることと、公共性が高い内容なので、無料で公開することにした。しかし、私はフリー記者であり、サラリーマンではない。記事をお金に変えて生活費と取材経費を賄っている。記事を無料で公開することはそうした「収入」をリスクにさらしての冒険である。もし読了後お金を払う価値があると思われたら、noteのサポート機能または
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<注3>今回もこれまでと同様に「だからといって、ロシアのウクライナへの軍事侵攻を正当化する理由にはまったくならないが」という前提で書いた。こんなことは特記するのもバカバカしいほど当たり前のことなのだが、現実にそういうバカな誤解がTwitter上に出てきたので、封じるために断っておく。
<注4>前回から間隔が開いたことをお詫びする。8〜9月は大阪で起きた冤罪事件「プレサンス・明浄学院事件」を取材・執筆、原稿は完成してしたが、被害者側弁護団が内容の細部に威圧的に介入してきたので、検閲を避けるために、筆者の判断で公開しないことにした。その後、筆者の体調不良で10〜11月は静養した。重ねてお詫びする。
(2022年12月6日、東京にて記す)
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