誰かのためにするんじゃない

 何かをするときにその対象が人であった場合、「その人の為にやる」=「してあげる」という意識を持っている人が多いように思います。誰かの為にやるってことは大切なことだ確かに。そう考えることによって、やろうとする力が増すから。でも、本質的に、というか最終的な目的や到達点を考えて、何のためにやるのかって考えたときに、誰かのためにっていうのは必ずしも正しいものではなくて、動機が変に美化されて優遇されている気がします。

 誰かのためにやるっていうのは、実際には勇気が要ることです。だって、自分に還ってくるかどうかを度外視しているから。還ってくるものが何かを考えてみると、それは感謝であり、誰かから頼られることによって感じる自己肯定感。つまりは、他者を媒介とした自身への還元なんですね。

 独りで生きていないので、誰かと関わって生きているので、他者という存在は認めざるを得ないものです。基本的には、見知らぬ他者。生まれも育ちも違うのですが、色々な機会で必ず私たちは誰かと関わるのです。そうやって、自分を相対化することで生きていく居場所を見つけていく。でも、誰かのためだけに何かをすると考えるようになると、どうしても誰かとの関係を気にし過ぎることになる。

 そこに自分がなくなると危ない。元々自分があっても、対象である誰かを意識し過ぎるが、故に自分は消えてしまう。独りで生きていないけど、生きていく上では独りなんです。矛盾を孕んでいますが、僕は本質だと思っている。誰かの為に何かをすることは、自分のために何かをすることでもある。そのことを忘れがち。

 「誰かのために」って考えると、どうしても自己よりも他者を優先している意識が働きませんか?何というか言葉で説明するのが難しいけど、「施してやってるぞ俺は」みたいな優越感。そんなものはぶっちゃけ全然いらん。施してるっていうのは相手を下に見てるってことだからね。そうじゃなくて、僕が伝えたいのは自分のため自分が生きるため。そのためにこそ誰かと関わり、力になることが可能になる。勝手にこっちで判断できることなんて、本当は全然ないんです。自分の価値を押し付けるのもいけないし、相手の要求を全て聞くことも無理。でも、それを分かった上で、敢えて言いたいのは優先するべきは自分の生き方についてだということ。

 そんなジレンマの中にあって、動機となり得るのはただ、自分が生きていかないといけないということ。だったら主体は自分しかありえないでしょう。誰かのためだけにではなく、誰かと自分のために。そうやって何をしていくと世界は変わると思うんです。

 

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?