誰かに頭を下げてまで、自分の価値を上げるなよ

 今から少し話をしよう

 で始まるクリープハイプのバンドを最近聴いていて、自分のことのように考えた。普段の僕はどうだろう。誰かに頭を下げてまで、自分の価値を上げようとしているのかな?

 頭を下げることにあまり抵抗はない。自分が悪いことに対して、潔く認めることが大事だと思うから。そして、謝れない人にはなりたくない。自分自身を認めるってそういうことだから。良い所も悪い所も全部ひっくるめて自分。そりゃ人に見せたくないよ。かっこ悪いのは嫌いだから、そうならないように何とかしようとしない人にはなりたくない。

 ただ、それが自分の価値を下げているってどういう意味だろう。要は卑屈になるなってことなのかな。主張を曲げてまで、自分が他者にとっていい人になろうとしなくていいってことなんだろうか。一人で生きているわけじゃないから、色々な人と関わって生きている。僕は歯車にはなりたくないけど、もし社会や職場が動いている仕組みがあるとするならば、僕は明らかに一つの歯車だと思う。ただ、言えることは僕の代わりはいるってこと。誰かが辞めたらそこを誰かが埋めて、回り出す。これが現実でよく出来ている。

 「自分にしかできないこと」「自分らしさ」「生きがい」なんて理想論で、現実には無いのかもしれない。35歳になると分かってくる。昔はもっと理想に燃えていた。自分にしかできないことがきっとあるとか、自分は特別とか他の人とか違うとかね。でも、30歳から朧げに、そしてコロナでの自粛期間を経て、自分が何もしなくても何とかなる、ってことに気付いてしまった。

 それじゃあなあなあにやって、ただの歯車として代えが効く存在に甘んじるのか。それはやっぱり嫌だった。仕組みの中で、ずっと尖ったままではいられない。どこかで溝を合わせないといけない。分かってるし、それ以上でも以下でもないことを理解しつつ、それでも足掻くのが自分には合っていた。

 もう中堅になった。増えてきた後輩たち。昔の自分みたいだなって思う。そんな姿を見て、それでいいって感じるようになった。そして、当時の自分を気に掛けてくれた先輩たちのことを思い出した。色々なタイプの人間がいるけど何か通ずるものがあって、たくさんのことを教えてくれて、仕事もプライベートも楽しかった。その先輩たちの年齢になって、僕にも少しだけ気持ちが分かってきた。今できることはおせっかいかもしれないけど、彼らに伝えること。伝わらなかったとしても。

 バンドの歌詞はこう続く。

 だけど愛してたのは自分自身だけで馬鹿だな 
 だから愛されなくても当たり前だろ糞だな

 自分自身を愛しているからこそ、愛されなくても当たり前だ。自分のためになるかもしれないけど、自分に出来ることがあるうちはそれをやろう。やらないという選択肢がそこに「ある」ということ。そして僕が望めばまた「鳴る」ということ。いつでもすぐに「僕」は「僕」になれる。

 尾崎さんにとっての「バンド」。それは自分自身だった。だから「僕」は「僕」のままでいいんだと、背中を押してもらった。

 


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