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ハイセンスと“香ばしい”感覚の時差。
最近、僕の周りで奇妙な感情のニュアンスとして使用されているちょっと面白いと思う言葉がある。「香ばしい」という言葉だ。それが使用されるとき、それは概ね否定的なニュアンスを帯びている。ちょっと胡散臭く感じたり、ある種の大衆性、俗っぽさを感じる時、感度の低さを感じる時に使用される等に思う。ああこの人やってるな、という感覚。使用例としては「あのインフルエンサーが、あの芸人のYoutubeは、あのアーティストは、香ばしい」。
そして、使用する人は往々にしてハイセンスをよしとする感性の嫌味な考え方をする人が多い。いい意味で捉えるならクリエイティブを客観的に捉えようと試みている人だ。ハイセンスと香ばしいの関係性の雑記にしばしお付き合いいただきたい。
大衆性を楽しめる人の感性はいい意味で捉えると、ピュアで素朴な感性を持っていることになる。作品を純に対峙し、楽しみたいという気持ち。しかしそれは、「自分がいいと思ったものがいいものなのであーる」と自分の感性を信じて疑わない主観性の話でもある。固有性という意味では、ある意味で「推し」的だ。その作品の真価を知りたいと思う時、それは本質的に比較することでしか測ることができない。そうこうして色々な作品に出会うたびに自分の感性は更新されて、こんなものを評価していたのか死にたくなるという通過儀礼があるのだが、そこまで到達できないのは、インプットの量が貧困というわけではなく、そこまで興味が湧かないということに尽きる。そこで大衆の感度は止まる。その感度をハイセンスな人が見ると感度としてはちょっと遅いのだ。結果、香ばしいという評価になる。市場の波がレイトマジョリティに到達するまでの時差というキャズム理論に近しいのかもしれない。
僕自身がデザイナーということもあり、職場の同僚など、デザイナー同士の会話の環境において、感度を探り合う会話が行われることがある。特に最初の段階で互いのことを知り得ていないときに多いのだが、好きな何かを訊かれた時、大衆受けするようなものをパッとあげると感度の低さを疑われる。そんな程度の作品でこの人はいいと思っちゃうのか、ふーん、この人普通すぎてつまらないと内心思う心地。あいつはああいう感性を持っている、デザイナーとしては、ちょっとどうなんだという批判。あまり目が肥えていない、審美性の感度の高低は仕事にも影響するため、迂闊なことは言えない。走る緊張の中、大衆向けで知名度があるもの、コア過ぎて挙げても共感されにくいもの、コアではあるがちょっとカルチャーに詳しければ聞いたことのあるだろう中間的なもの、3パターンを咄嗟に考え、相手が求めているであろう答えに応じて吐き出す。これがパッとできればいいが、あたかも計算機かのようにそんな簡単には出てこないこともしばしばだ。自分には、中間のものを投げたつもりがいやいやそれは俗っぽいよ、香ばしいと言われることもある。そのラインの境界線を探る様子はお洒落とは何かを探るものに近しい感覚でもある。
例えばファッションは個性に走りすぎると、ほとんどの人がセンスがないと感じるはずだ。自分のためにお洒落をするのだという人はそれで構わないのだが、僕はそれではファッションの意味をなさないと思っている。まずは自分の身体の属性を捉えて、合致するストリートやモードといった系統で揃え、その上で一旦流行りに乗ってみる。ただ乗っかっただけでは一つハイセンスの人から見たら、それこそ香ばしいと思われる。そこで無難に行くか、自分のスタイルを確立してそれを貫くか、ある程度のトレンドおさえつつちょっと崩すあたりが良いのだろうが、その塩梅も人によりけりだろう。
以前雑談している際、後輩に好きなデザイナーを尋ねたら、あまり思いつかないという返答があった。また、職場のデザイナー数人でアートの話をしている際、好きなアーティストの話になった時も同様、それを挙げられない、あまりアートについて詳しくない人がいた。少なくとも僕の周りにはデザイナーもアーティストもそんなに興味ないが、デザイナーの肩書きを背負っている人が一定数いるようなのだ。すごく寂しいことのように思う。
同様に僕は、デザインにしか興味を持てないデザイナーに興味を持てない。貧困な畑を耕して出てくるデザインは、丸く収まったという意味ではデザインとしてはいいものかもしれないがそれ以上の何かを感じることはできないと思ってしまうからだ。端的に言って、本当の意味での人の胸を打つクリエイティブとは言えないのではないかと思わず感じてしまうのである。きっと自分はデザインに自分の理想的な何かを求めすぎ、他者というものに期待しすぎなのだろう。
このハイセンスと大衆性にはキャズム、大きな深い溝が横たわっている。僕はこの溝を埋めたいわけでも広げたいわけでもない。そんな簡単ではないからだ。ただ、香ばしいという否定的ニュアンスを帯びた言葉のように、ここには確実に分断があり互いを認めない。互いを互いの文脈やものさしで評価しようとするから無理が生じる。そうでなく棲み分けとして、それぞれの“すみか”のように捉え直してみる。これはこれ、それはそれとして、互いの文脈を持ち込まず純に評価してみる。大衆性→ハイセンスはわからないとなるかもしれないが、ハイセンス→大衆性の良さはわかるという部分が必ずあるはずだ。そうすると、その溝となるグレーゾーンを埋める触媒的な創造性を発揮する余地があることがわかる。いい意味でのグレーにこそ何かの縮小再生産ではない、本当のクリエイティビティの門があるはず。そこを叩きに行きたいと思うようになった。実際にその融合された鱗片も既に垣間見えつつある。
やってみるのは香ばしいが、高みの見物はダサい、ダサいのはわかっているがあえてやってみるのだ。しらけつつもノリ、ノリつつもしらける。このバランス感覚こそが今もなお、この現代をしなやかに生き抜く処世術として通じることをいちクリエイターとして信じたい。