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でも確かに生きてる意味 私はもう見つけたから

趣旨

 今回は俺が何のために生きているのか、何を目標に生きてゆくのかを言葉としてまとめようと思う。俺は時として精神が落ち込み、なぜ生きているのかわからなくなることがある。そんな時に備え、モチベがあふれている今の時期に、生きていく理由を言葉にしてとどめておき、後々見返してモチベを取り戻させるという役割をこの記事に持たせている。”生きていく意味”を”世界中の生物”としたときに、AAAヴンダーに当たるのがこの記事だ。あるいは、”生きていく意味”を”種子”としたときにスヴァールバル世界種子貯蔵庫に相当する役割を持っていると考えてもよい。(語感がいいぜ、スヴァールバル世界種子貯蔵庫。)

生きる意味①:夢の実現

 このuferseiteには夢がある。俺は、好きな時に好きなことができる生活を実現したい。今まさに身を投じている受験勉強も、広い視点で見れば夢の実現の一つのステップといえるだろう。
 しかし、俺にはもう一つ、さらに大きな夢がある。この夢の前には先ほどの夢なんてほんのちっぽけなもので、大海を前にした砂塵の城に過ぎない。さて、その夢とは、精神的に卓越した生活の追求である。安定した精神を持ち、美しいものを見て美しいと言い、美しいものを見て美しいと思ったと文に書き表す。そんな生活をしたいのだ。ここら辺はより詳しく後述する。

生きる意味②:美食の追求

 美食というものは、この世の趣味の中でいっとう高尚なものだ。それを体験するのに、我々が授けられた人間の五感たる味覚、聴覚、嗅覚、視覚、触覚をすべて使うことのできる行為は食事のほかに存在しない。;味覚を刺激する行為は食事だけであり、逆に、食事の際には、料理を味わう味覚、調理行程を聴き想像を広げる聴覚、料理の匂いをかぐ嗅覚、口に運ぶ前に見て楽しむ視覚、食べ物をかみしめる触覚のすべてを使う。
 さらに食事の素晴らしい点は、それが人間の生存と欲求とにダイレクトに結びついていながら、限界があるということだ。どんな趣味であれ、ある種依存状態に陥るほどにのめりこんでいる姿は決して美しくなく、醜いといってもよい。しかし食事ではそんなにのめりこみすぎることはない。我々が食べることのできる量は決して多くないのである。さらに、その数少ない量のために、料理人が工夫を凝らす。しかしどんなに工夫を凝らしたところで最後には腹の中。このはかなさに味があるのだ。これはまさに芸術と呼んでも差し支えない。

生きる意味③:人間的に”良い”存在となる

 身体のプロポーションが良かったり、容貌が整っていたりする人は、見ていて気分がいい。もし自分もそのような、めやすき人になることができたら、自己肯定感も多少なり上昇するのではないかと期待している。
 具体的には、容姿整えと筋トレをしたい。健全な精神は健全な肉体に宿るという言説が正しいならば、筋トレによって健全な精神を得ることが可能だし、整った肉体を作ることは物書きの責務とも言えるだろう(ex;三島由紀夫)

生きる意味④:心の動きを理解し、エモーショナルを追求する

 これが最大の理由となる。書くことも多いので更に分ける。
1:創作物を見る
 創作物とぼかしてはいるが、要するにアニメや漫画を見ることだ。俺は二次元を真に受けあたかも現実かのように、いや、むしろ現実以上に重く捉えてしまう性質を持った異常者であるという自覚がある。しかしその性質のお陰で、世の中に数いる作者の表現とキャラクターの心を捉えて、更にその感情を自分のものとして受け入れ追体験することができるのである。俺は物語シリーズが好きだ。(ちなみにこの記事のタイトルは物語シリーズから取ったものだ。)俺はジョジョの奇妙な冒険が好きだ。俺は新世紀エヴァンゲリヲンが好きだ。俺はらき☆すたが好きだ。
 自分が好きな作品の共通点を見つけ、新しく桃ろ奪われるような作品に出会うこと。これは日々苦しみながらも生きていくのに必要なことだ。
2:素敵な場所に身を置く
 そこにいるとなぜか感傷的な気分になり、あれやこれやと物思いにふけってしまうような場所がある。ではなぜそのような気持ちになるのかと考えたら、俺は、その場所が感傷を呼び起こしてくれるような雰囲気を持っているからだと考える。例えばそれは昔見た景色に似た郷愁だったり、あるいはシンプルな感動によるものかもしれない。いずれにせよ場が心を刺激し、心動かすのに十分なきっかけを与えてくれることで、俺達は意気揚々とエモーショナルな気分に浸ることができる。
 月が綺麗で泣きそうになるのは、泣けるための理由をつきが与えてくれるから、というわけだ。
3:感情を表現する
 俺の心を占める、えもいわれぬエモい感情を言葉にする。好きなものを好きといい、良いものを良いと言い、言葉としてとどめておく。これが、言葉を獲得した人間の特権であり、気持ちを表現する喜びは生きていくのに必要十分であるとも思う。
尤も、これはなかなかできたものではない。俺は今も、心の動きを大事にしたいと思う、Takの文系の部分と、心の動きを緻密に分析をし、理論的に追求したいと考える、Takの理系の部分を抱えている。しかし今はこの2つを同時に満たすことができない。様々な要素が綿密に織り成す心の動きを無理に分析し、無理矢理に言葉に当てはめて説明しようとすると、一気にその感情から神秘性が取り剥がされ、心を占め俺の胸を酔わせていたあの感情が陳腐なものとなってしまいそうな気がするし、俺はそれを恐れている。
 この夢が真に達成されるのは、俺が心を表現するに足る表現力と語彙力を身に着けたときなのだろう。
 先に挙げたアニメ、俺がなぜそれらを好んでいるのかと言われたら、作者がこれらの作品たちに、胸を包む重厚な感情と大きなコンプレックスを注ぎ込んでいるからだろう。(こんな事をいうと心外かもしれないが、西尾維新はきっと、青春時代に何かしら思うことがあるだろう。)
 俺もその先達のように、自分の気持ちを自在に文章に盛り込んで、それを読んだ人の心を動かすことができたならば、俺のこのコンプレックスにまみれた三年間の青い春も肯定されたような気持ちになる。
 つまり、俺はこれからもnoteを書き、そして表現を止めない。それが俺の生きる意味だから。

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