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「日本書紀〇〇千三百年」――資源活用事業#08

植戸万典(うえと かずのり)です。専門は古代史でした。

『日本書紀』って『古事記』と比べてなんとなく影が薄いように思うのは自分だけではないはず。どちらも同じ頃に日本史で習ったはずなんですけど。
わかりにくいんですよね、『日本書紀』って。初見だと特に。ただ、ちゃんと読んでみると結構面白いんですよ。

今回のコラムは、令和2年3月16日付の『神社新報』に載せた「日本書紀〇〇千三百年」の再掲です。やはり旧仮名遣いはWeb上で読み易くするため、引用部分以外は新仮名遣いに直しています。

コラム「日本書紀〇〇千三百年」

 本邦最初の正史『日本書紀』も満千三百年。史学専攻としては往古の国家的修史に思いを馳せ、改めて歴史に対し襟を正す年としたい。
 ただ気軽に「千三百年」と云うが、具体的には何が基点の数字なのか。構想か、起筆か。『古事記』と異なり序跋もない『紀』には、その成立事情が詳しくない。これは第二の正史『続日本紀』に記されてゐる。
 『続紀』養老四年(七二〇)五月癸酉(二十一日)条に曰く、「是より先、一品舎人親王、勅を奉(う)けたまはりて日本紀を修(あ)む。是に至りて功成りて奏上(さしあ)ぐ。紀卅巻系図一巻なり」と。大業の割に素気ない記事だが、これがすべてだ。「是より先」とは、『紀』の編纂が単年度事業でなかったから。天武紀の十年(六八一)三月丙戌(十七日)条に「天皇……帝紀と上古の諸事を記(しるし)定(さだ)めしめたまふ」とあり、通説では編纂もこの頃から始まったとされる。
 現代でも史料の編纂は長期に亙るが、初の国史は四十年を要した。すると、巷間よく「編纂千三百年」と云われ、まあ編纂完了と考えればそうだが、「今年」という点に拘るなら期間全体も含む言葉よりさらにピンポイントな語の欲しくなるのが史学徒かつ売文屋の性というもの。瑣末事ばかり気になるのは悪い癖だ。
 歴史学では、用語においても史料に基づくことを旨とする。当然、多彩な表現のなか言葉を整理し、研究上の造語もするが、それでも同時代の語彙、史料の字句は尊重される。『紀』研究でも所謂「郡評論争」はその象徴的な例だが、紙幅もないので贅言は止そう。
 これは史料を盲信することではない。その点は『紀』にも通底している。『紀』は矛盾もあるが、諸説併記の神代紀からも歴史への真摯な姿勢は窺われる。こうした先人の姿に赤誠を以て稽古照今することも周年記念の意義ではないか。何でも千三百年に託けて持て囃し、消費されゆく世間の話題に便乗して関心を買おうとの魂胆なら、歴史を都合好く利用しているだけとの謗りは免れまい。精々キリの良い番号を踏んだことに終始しよう。
 閑話休題。今年は何の周年と云おうか。無論「成立」も良い。ただ些か興趣に欠ける。後代の正史は序文などで自ら「撰」としたので「撰進」も捨て難いが、やはりここは史学徒らしく原点に立ち戻り『続紀』の記事を重んじたい。国史を学ぶ者ならまず押さえる『国史大辞典』も「養老四年……完成、奏上」とする。辞書も万能ではないが、知の遺産の尊重もこの佳節に必要な誠実さだろう。
 ちなみに間々使われる「撰上」の語は、他に用例は見えなくもないが、先学の叡智『日本国語大辞典』や『大漢和辞典』も採っていない言葉だ。この分野は素人だが、いったいどうした事情なのか、実に興味深い。
(ライター・史学徒)
※『神社新報』(令和2年3月16日号)より

「日本書紀○○千三百年」のオーディオコメンタリーめいたもの

辞典は言葉や物事の説明書なので、必ずしも「正解」が書いてあるわけでも世の全てのことが載っているわけでもありません。
ただ、使う言葉の方位磁針にはできるもの。それはその辞典の編集者らによる叡智が詰まっているのです。

あまり盛り上がってはいない『日本書紀』の周年ですが、折角なので自分もちょっと何かしてみたいと思ってます。

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植戸 万典
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