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消えないように”つける”【大竹伸朗展】

恥ずかしながら大竹伸朗について全然知らなかった。
友人から行ったほうが良いと言われたので、せっかく知らないなら知らないまま美術館へ行こうと、予習せずに行った。

度肝を抜かれた。

引越しなどあり最終日になってしまったが、滑り込めてよかった。
撮影した写真や図録 (売り切れていたので友人から借りた) 見ては、ため息をつくばかりである。

大竹伸朗の作品を一括りにすることは難しいけど、
しかしながら文章に残しておきたいので何とか感想を絞り出します。

夢、ゴミ、音。

展覧会では7つのテーマ、「自/他」「記憶」「時間」「移行」「夢/網膜」「層」「音」から構成されていた。これらに共通することはなんだろうか。

大竹伸朗は『既にそこにあるもの』(2005)というエッセイを書いている。大竹伸朗の興味は今存在しない新しいものを作ることではなく、「既にそこにあるもの」だった。そのため作品は自ずとコラージュじみてくる。

今回の展覧会について大竹伸朗本人は「すべて人差し指で作られている」と語っていた。

その上で、今回、こう言ってみることにしてみた。
「(綺麗なのに)消えてしまうものを作品に定着させて保存する。」
夢、ゴミ、音。大竹伸朗の作品にはそういったものを素材にしている。
共通することは、実世界に定着せず消えてしまうことだ。

『モンシェリー:スクラップ小屋としての自画像』(2012)
時折、歪んだギターの音が聞こえる

東京国立宇和島駅近代美術館、もしくは夢

東京国立近代美術館へ行くのはリヒター展以来だった。
久しぶりな上、二回目だったが、それでも違和感に気付いた。
明らかにおかしなものが券売機の上に立っていたからだ。
『宇和島駅』(1997)だ。

東京国立近代美術館の券売機の上、屋上に駅にあるようなネオンが設置してあった。実際にこれは現在の大竹伸朗の拠点、愛媛県の宇和島の宇和島駅で使われていたものだ。

見たことのある景色や違う場所の建物が混ざり合って、存在しないのに入り込むことができる光景。夢を見ているようだった。

夢は記憶の整理が引き起こすと説明されることがある。美術館と駅のコラージュによって具体的な違和感がそこにあった。撮った写真を見れば現実のものとわかるが、『宇和島駅』を思い出すとき、夢を思い出しているような気分になる。

大竹伸朗にとって「夢」は大きなテーマである。
大竹伸朗は20代の頃から夢日記を続けている(最近はあんまりしていないとも語っていたが)。展覧会内でも7つのテーマの一つに「夢/網膜」がある。

いくつかどちらかというと平面な絵を見ていくと、突然怪しい空間が現れる。さまざまな立体物が空間ごとモンタージュ作品にしていた。

カヌー、ボート、錠、街灯、エレキギター、アンプ、ソーラーパネル、看板、バナーボトル人形、木彫りの人形、ビニールホース、キャンピングカー、小屋。

立体物によって構成された空間はテーマパークのようだった。しかし、どういったテーマなのかはつかめない。大竹伸朗の見たものや触ったもの聞いたものが閉じ込められた空間。大竹伸朗の夢の中に潜り込んだようだった。夢にテーマはない(と言い切るのは怖いが……)。

夢は限りなく個人的なもので共有することができない。もしくは、夢は限りなく刹那的なもので保存がきかない。夢をどうにか残しておきたいというのが夢日記であり、大竹伸朗の作品はどこか夢の実体化じみている。それはつまり記憶自体の実体化でもあるだろう。

『宇和島駅』(1997)
宇和島駅のリニューアルにともない捨てられるはずだったネオンを大竹伸朗は引き取った。

ゴミに美を見て発酵させる

ゴミも大きなテーマだ。『ゴミ男』(1987)は大竹伸朗の代表作の一つである。東京から排出されたゴミを素材に4メートル*4メートルのパネルにコラージュされている。8枚のパネルにより構成されているが、今回の展覧会では正方形ではなく横に8枚ズラッと並んでいた。回り続けるオープンリールデッキの音とスピーカーから流れるテープの音源が静かに響いていた。

その他にも、紙の切れ端や拾ってきたものを使ってコラージュされた作品が多数あった。私は、工作後の机の上に散らかるゴミの美しさに、気付けなかったのだろうかと自問した。気付いてしまったら捨てられなくなってしまうから、気付かないようにしてたのかもしれない。そして捨てたら忘れてしまう。それを大竹伸朗は拾い上げ一つ一つ貼り付けていく。忘れないように、思い出せるように。作品を見て今までに捨てた綺麗なものを少し思い出せた気がする。
 
大竹伸朗は忘れてしまうものを忘れないように、まるで外付けHDDに入れるように、作品に書き込んでいく。
実際、大竹伸朗は作品に、何時どこの何を使ったのか怖いほど覚えている。作品から記憶を読み込んでいるようだった。(YouTube)
 
しかし、様々なもので覆われた作品はどんどんと発酵していく。大竹伸朗は決して美しいゴミを無菌状態で保管するのではないからだ。まるで、ぬか床に入れるかのように、漬物の瓶に入れるかのように、閉じ込められ発酵する。発酵の具合は時間によって変わる。
 
『網膜/太陽風 1』は1990年から2020年と、30年も製作期間がある。大竹伸朗はわざと素材を長時間放置させて劣化させる事があるという。時間という消えてしまうものを素材の中に閉じ込める。時間は質感に変わり、層に変わり、厚みとして現れる。大竹伸朗にとっては時間も既にある素材なのかもしれない。

『網膜/太陽風 1』(1990-2020)
時間が層に変わり赤い大理石のような見た目になっている。

記憶に干渉する音

大竹伸朗は「音」も他の素材と同じようにモンタージュに入れ込む。
「音」であって決して「音楽」ではないという。それは素材として扱っているからだ。

巨大な立体作品、『モンシェリー:スクラップ小屋としての自画像』(2012)からは時折おかしなチューニングのエレキギターの音がなる。覗き込んでみると巨大なスクラップブックを背にエレキギターがおいてあり、ふとした瞬間にストロークされる。不気味とも思える音はその場の環境を作る大きな素材の一つだった。

とはいえ、音は閉じ込められない。他の素材はなんとか捕まえて作品の中に定着しているが、音はその場で生成され消えていく。他の作品を見ているときも耳に入っていくる。違う作品を見ているときであっても音がコラージュされていく。音を素材にした作品がその空間に一つあるだけで、その空間が大きなコラージュ作品に変わってしまうのだ。

図録に音楽再生機能はない。その場で録音などもしなかった。音だけは完全に記憶だよりだ。そのこともまた、作品鑑賞の記憶をコラージュしていく。あの作品を見たときはどんな音が鳴っていただろうか。記憶の位置関係や映像記憶から切り貼りされてぼんやりとした経験を再生する。

『網膜』シリーズは、1988年、露光ミスのために捨てられたポラロイド写真が「当時漠然と頭の中に描いていたイメージをあまりにも忠実に再現していること」を大竹伸朗が発見し作られたという。思い出せないものを思い出したり、抽象的なものを思い浮かべたりするときの頭の中のイメージはたしかにこういったものなのかもしれない。少なくとも大竹伸朗はそうだった。

『網膜』(1990)
高さが3mと巨大な作品だった。

帰ってから図録に食らう

行ったのが最終日だったため、図録が売り切れていた。注文はしたが届くのは3月下旬になるそうだ。とりあえず現在は友人から借りた図録を使っている。
この図録にも圧倒された。

新聞と冊子によって成り立っており、図録の”図”は基本的に新聞紙に印刷されている。めくるたびにシワが寄り、若干バラける。その軌跡が図録に反映されていく。他人の物なのに愛着が湧いてしまう。本でも原理上同じことは起こっているのだろうが、単語帳レベルで使わないとそう簡単にシワが寄ったりはしない。

めくる動作という消えてしまうものが、図録の中に残されていく。

折りたたまれることを前提として作られているため、見たことのない大きさや数で作品が印刷されているのも楽しい。

『図録』(2022)
手触りもよい。開いているときの新聞を読んでいるような仕草も面白い違和感だ。

夢、ゴミ、音。加えて時間、頭の中のイメージ。そういったものを素材の劣化や層に閉じ込めていく。見逃してしまうような美しさやかっこいいものに目を向け作品の中に閉まっていく。

再び開けたとき、その素材は発酵しており違った匂いを醸し出す。大竹伸朗の作品は圧縮されており、それを目の前にしたとき溢れ出した「記憶」に圧倒されてしまうのかもしれない。

それが500点も並べられていたら、それはもう度肝を抜かれるのである。


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