カンショウに浸る【文化庁メディア芸術祭25周年企画展】
文化庁メディア芸術祭25周年企画展に行ってきた。
文化庁メディア芸術祭は1997年からメディア芸術作品を表彰するために実施されている芸術祭だ。「アート」「エンターテインメント」「アニメーション」「マンガ」の四つの部門に分かれている。
特にメディアアートではなかなかこういったコンクールやらコンペティションのようなものはない。ゼミの教授に「絶対に落ちるけど卒業制作をどこにも応募しないのはもったいないから、とりあえずここに送っておけ」といわれたことを思い出す。もちろん返事はこなかったが、人生のどこかでまた応募する日が来ると漠然と思っていた。
そんな文化庁メディア芸術祭は次の作品を募集していない。
25年の歴史に幕を閉じるそうだ。
どういう理由で終わるのか。終わるとどうなるのか。僕にはわからない。
一つだけわかるのは、「文化庁メディア芸術祭25周年企画展」が、11日間という短い会期で閉じてしまうのはあまりに惜しすぎたということだ。
錚々たるメディア芸術たち
この作品もか、と思った。知っている作品がたくさん並ぶ。知らない作品は知らないのが恥ずかしいぐらい。すごい作品ばかりだった。
『ゼルダの伝説 時のオカリナ』『AIBO』「明和電機」『ほしのこえ』『時をかける少女』『Wii Sports』『Braun Tube Jazz Band』『particles』『四角が行く』『TikTok』『10番目の感傷(点・線・面)』
展示作品のタイトルを並べるだけで、ワクワクする(明和電機はグループ名でTikTokはサービス名だが……)。メディア芸術と括るのに相応しい作品たちだ。
2階には受賞作品のマンガコーナーがあったが、そこにいるだけで時間が解けそうだったので一旦無視した。閉館2時間前に到着したからだ。
画像のピクセルの情報を6次元 (多分x, y, z, r, g, bもしくはx, y, z, h, s, v) としてとらえ6次元空間を回転させることで新しい効果を得る『datum』や、非線形的数理モデルを用いて高精細に映像化された光の粒の軌跡『Imaginary・Numbers 2006』など、自分の興味と近い作品も多かった。
見ていて楽しい作品が様々なところから集まっていて、まさにお祭りだった。
最先端から歴史になる
第一回のデジタルアート(インタラクティブ)部門 大賞作品 <実施当初はデジタルアート(インタラクティブ)、デジタルアート(ノンインタラクティブ)、アニメーション、マンガの四部門だった> 『KAGE』は机から生えた角を触るとその影がアニメーションするという作品だ。オブジェクトがセンサーになっており、人が触れることを想定している。影もコミカルに動くし、意外性があり、どの角を触ったらどうなるのか調べてみたくなる。
優れたデザインと手触り、そしてインタラクションが先進的かつ、その後のメディア芸術の行方を示唆するようだった。自分のいる/いたい場所はこの延長線上にあるのかもしれない。そう感じた。
『Wii Sports』はWii本体とともに飾られていた。『Wii Sports』のゲーム性だけでなく、ゲーム機、UI、OS、Mii(!)なども含めた総合的な「Wii」が大賞に値すると判断されたからだ。
自分たちの身近にあったものがガラスケースの中に入れられていると一抹の違和感を覚えるが、その価値があるものなのは間違いない。もうすでにWii U を経て、Switch に代わっているが、2006年にゲームの概念を変えたこのゲーム機が、根底にある。
『Braun Tube Jazz Band』
メディア芸術は、メディウムをはっきりと認識させる作品も多い。それゆえに実際に見ることで経験が完成するものも多かった。
最近ではバーコードを使った作品も有名な和田永による作品、『Braun Tube Jazz Band』はブラウン管をぶっ叩くことで音を出す。ブラウン管の画面に触れているだけでも音が鳴る。
映像で見たことはあったが実物は見たことはなかった。
しかもその場では触って音を出すことができた。とても刺激的な体験だった。時間によっては本人の演奏を間近で見ることができたようだ。
『四角が行く』
『四角が行く』は「ルール?展」で見た以来だった。その時と同じく二つ展示されていた(もしくは、二つ合わせて一つの作品)。
一つは、白い箱3つが、迫ってくる穴の開いた壁を、ギリギリ通るような配置に自分たちで移動し、潜り抜ける。まるで四角い箱たちが生きているかのように見える。
その様子は撮影され真横に投影されている。
画面の綺麗さや不思議さに思わず、編集されたものに見えるが、間違いなくその場で起こっていることなのだ。映像の中で現れる現象と目の前で現れる現象では与える印象が全然違うことに気付かされる。
もう一つの方は、一つの白い箱がただただバタバタと体勢を変える。作品の前にあるタブレットをのぞき込むとその謎は解ける。タブレットにはカメラを通した白い箱の様子が映し出されており、画面上に合成される上下左右からくる穴の開いた壁にあたらないように動いていたのだ。
ルールはあるが現実世界では見えない。
一見シンプルでかっこよくてかわいい作品だ。しかし、どう動いているのか僕には見当がつかない。バタンバタンと位置を箱が変えるときに響く音が空間を支配する。素晴らしい作品だった。
『10番目の感傷(点・線・面)』
十分満足し、最後の展示に向かった。そして、タイトルの表記を見たとき動揺した。なぜこの作品がここにあるのか。予習をせずに来たためこの作品があり、しかも実際に展示をされているとは思わなかった。
『10番目の感傷(点・線・面)』は作りだけは大変シンプルだ。床に日用品が並べられ、その間を鉄道模型が走っていく。鉄道模型にはライトがついており、暗闇の部屋の壁を照らして行く。ただそれだけだ。しかしその効果は絶大だ。壁に映る影が車窓に移る景色になるのだ。
映像学部に入る前、NHKの『テクネ』で紹介されていたのをみて衝撃を受けた。大学に入ってからも、何度も作品を参照した。
配置の妙によって、ただランダムに置かれているのと違い、リアリティが鑑賞者を襲う。
鉄道がトンネルに入ると、部屋も真っ暗になる。小さな出口が広がり部屋中に光が当たる。さっき通った景色がまた、遠くでゆっくりと小さく動いている。鉄道に乗ると経験する光景と同じだ。
車窓と違う点は、自分が映るとき、それは車窓が鏡いなるのではなく風景の一部として現れる。さながら巨大な怪獣だ。作品の中に入り込んだ気分になった。
一周するのをしっかりと見守った。旅をした。
この作品が見られるなら来てよかった。
と、いろんな作品を見て思った。
これからを何で見るか
25年という歳月を見た。
こんなに豊かだったのかと驚かれる。
この先、例えば25年後、想像だにできないメディア芸術が出てくるだろう。それらを振り返るとき、どのように包括的にみるのだろうか。
少なくともメディア芸術、的なものに携わる人間にとって、モチベーションになった芸術祭だったとおもう。
終わってしまうという哀愁を背負いつつ、メディア芸術もしくはそれに準ずる何かに黙々と向き合うしかないのだろうが、お祭りにしかないエネルギーというのも大事な気がしている。