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短編小説・「丘の上の住人」

ゆっくりゆっくりと歩いているおじいちゃんを見かけた。
とは言え履いているショートパンツも、半袖のピンクストライプのシャツもレザーサンダルも、こざっぱりとしていて、頭に載せたパナマ帽とのバランスは抜群だ。
誰かが彼のために選んでくれたのではないか、と思わせる服装だ。

小春日和の穏やかで柔らかな日差しが、木々の間からこのこぢんまりとした高級ショッピングモールを照らす。
真ん中にあるテラスをぐるりと囲むように、カフェやカジュアルなレストランが軒を連ね、目の前にはテーブルと椅子が置いてあり、いつでも客たちをリラックスさせようとしている。
そのうちの一つのカフェは、入り口とは別に人ひとり分の窓を開け、テイクアウトや注文を受け付けている。
そこに立つのは、おそらくメキシコ系中年男性。愛想がよく、スペイン語訛りの英語で気さくに話す。

そのおじいちゃんが、男性の立つ窓の前を通りかかると「ハーイ。今日もいい天気だね。いつものでいいかな」と、常連客にはさらにフレンドリーに愛想良く話しかけている。
「そうだね。同じもので」
とおじいちゃんは答え、すぐ近くのテラス席に座る。
ゆっくりと歩き、話すスピードも多少遅いものの、鼻下に白い髭を蓄えダンデイさは若い頃と変わってないのではないか、と想像した。

ここロサンゼルスに住む友人を訪ねてきて3日目。
どうしても一度来てみたかったマリブは、想像以上に静かで落ち着いた街だった。
と言っても高級住宅街を道なりに見ることなどはできず、丘のかなり上の方にこのマリブの海岸線を見渡せる、10億円以上の豪邸の気配が地上から垣間見える程度だ。
きっとあの丘の上には、頑丈な門扉と門番がいるに違いない。
このおじいちゃんもあの丘の上から降りてきたんだろうな、と思った。
彼のお抱えドライバーはどこかで時間つぶしをしているのだろうか。

私が素敵なおじいちゃんを見かけたのは、友人がショッピングをしている間に、喉が渇いてこのテラスへと辿り着き、「ピンクレモネード」の文字を見た瞬間、反射的に注文をして椅子に座った直後のことだった。

おじいちゃんの「いつもの」食事が出来上がると、常連客であり、歩くのが大変だからだろう。
店の人が特別におじいちゃんの座っている席までトレイを運んできてくれた。
「ありがとう」と言って、おじいちゃんはその陽気で親切なおじさんに5ドル札を渡した。
その様子がいかにも人からサービスをされ慣れている人に見えて、やっぱりこの丘の上に住んでる人だ、と思った。

おじいちゃんはバーガーのポテトを食べ始めると、パナマ帽を脱いで丸いガラス製のテーブルの上に置いた。その瞬間、ひゅーっと音を立てて小さな突風が帽子を巻き上げた。同時に私は走っていき、遠くまで飛ばされてしまう前に帽子を手にした。
「どうぞ」
とおじいちゃんに差し出すと、中腰になって「ありがとう」と半分驚きながら、笑顔を浮かべた。
「お礼に何かご馳走するよ。アントニオー」
とカフェの方に向かって少しだけ大きな声で呼びかけると、あの窓からおじさんが顔を出す。
「このお嬢さんに何か食べるものを」
決してお嬢さんの年齢ではない私だが、彼からすると自分の娘くらいの年齢なのかもしれない。
その言い方がまるで、家で執事に命令をしているかのような言い方で、微笑ましい。
「いえ、私はただできることをしただけですから」と言うが、おじいちゃんは「一緒に食べてくれたら嬉しいんだけど」と、お茶目な表情で言う。憎めない。
お店のおじさんが出てくると、「このお嬢さんから注文を聞いて」と、普段はそのおじさんの窓まで行って注文をするはずなのに、オーダーをしている。
その姿があまりにも自然で、私も釣られて「じゃ、本当にありがとうございます。ご親切に感謝します」とおじいちゃんに言って、「私もバーガーとポテトをお願いします」と言うと、「オッケー」と陽気に返事をして、店内に戻って行った。

「本当にありがとうございます」
「いやいや、こちらこそ助かったよ。帽子を追いかけていくなんて、私にはできなかったから。諦めないといけないところだった。あれは亡くなった妻が選んでくれたものだから、お気に入りなんだよ」
と、言いながらバーガーを大きな口を開けて旺盛に食べている。
「私は友達と来ていて、後から友達も来るんです」
「じゃあ、その人も一緒に食べてくれると楽しいよ」と、どこまでも寛大だ。
「ここにはよく来られるんですか」と、ピンクレモネードをストローですすり、聞いてみた。
「そうだね。天気のいい日はほとんど昼間はここにいるかな。ずっとうちにいてもつまらないからね」
「私はここに初めてきましたけど、素敵なモールですよね。私も毎日来たいくらい」
「ああ、ここの人じゃないんだね」
「はい、旅行で日本から来ました。友達の家に泊まっています」
「おー日本か・・私の父が戦争で日本、沖縄にいたよ」
「そうですか。そんな話をアメリカの人からよく聞きます」
「今は私たちはこうして普通に話せるけど、70年前はね」と、おじいちゃんは可愛らしくウインクをした。
「そうなんですよ。私も今の時代に生まれてよかったです」
「お待たせしましたー。バーガーにポテトだよ」と、メキシコ系おじさんがベージュのトレイを
運んできてくれた。
おじいちゃんはまた5ドル札を彼に渡した。「ありがとうございます」と私はおじさんにも、おじいちゃんにもお礼を言った。
「さあて、召し上がれ。私はほぼ毎日食べてるけど、案外美味しいよ」と、おじいちゃんが言うと、肉厚で、熱々のハンバーグがうなづいているように見えた。

かなり大口を開けて食べないといけないが、レタスはパリッとしているし、トマトは甘いし、肉は美味しい。
「わおー。おい ひい」と、熱さと口の中がいっぱいでろくに話せないのに、なんとか感想を言うものだから、変な言葉になってしまった。

「だろ?」
とおじいちゃんは得意そうだ。

やがて友人が戻ってきて、怪訝そうにこちらを見ている。
そりゃそうだ。知らないお年寄りと一緒に大口を開けてバーガーを食べているのだから。
「ああ、ひかり。この方にご馳走になったの」
「あーあなたがご友人か。よかったら一緒に食べてくれないかね」
「あ、あ、はい」
とひかりはまだ事情がわからず、ご馳走になっていいものか決めかねている。
「さっき私が飛んで行った帽子をとってあげたら、ご馳走してくれるって言うから」と日本語で説明をすると、「まあそうだったの。私もご相伴に預かっていいのかしら」と、私に日本語で、おじいちゃんには流暢な英語で質問した。
「もちろんだよ。アントニオー」
とまた、あのメキシコ系スタッフを呼ぶ。
「すごく美味しいわよ」と私が言うと、ひかりも同じものを注文した。
おじいちゃんはまた5ドル札をアントニオに渡した。
「ありがとうございます。私まで」とひかりが言うと、「いやいや、ひとりでランチを食べるより、お嬢さんたちと一緒に食べる方がずっと美味しいから」と言って、お茶目な笑顔を見せる。
ひかりもそのおじいちゃんのかわいさぶりに、あっという間に打ち解けたようだ。
「こちらにお住まいなんですか」と、ダイレクトに聞く。
「ああ、あの上の方だよ」と、おじいちゃんの後ろにあるあの「丘」を指差す。
「そうなんですね」と言いながら、ひかりは私の方を見る。「すごいわね」と言う、メッセージを目にたくわえて、輝きが増した。
「あなたはここに住んでるの?」
「はい、オレンジカウンテイの方です」と、こちらもなかなかの高級住宅街の名前を口に出す。
「あーいいところだよね」
「はい、家族が気に入ってそこに家を買いました」
「ご主人も日本の人?」
「いいえ、アメリカ人です。ワシントンの人ですが、寒さが苦手でカリフォルニアに移ってきたって言ってます」
「確かに。東部は寒いからね」
「ですよね」
おじいちゃんは全てを食べ終え、一息ついたようだ。
「あのーもしかして・・・」と友人が言いにくそうに言葉を発した。
「あの脚本家のボブ・テイラーさんですか」
「ああ、そうだよ。もう今は書いてないけどね」
「やっぱり!私、脚本家を目指して勉強していたことがあって、まあ才能がないって分かって辞めましたけど、そのときいあなたの脚本を何度も読みました。」
「おお、それはありがたいね」
「こちらマリブにお住まいだったんですね」
「引退してから妻と過ごすためにこっちに引っ越してきたんだよ。でも妻は3年前に亡くなったがね」
「まあ。それはお気の毒に」
「いまだに妻が生きているような気がしていてね。このモールにはいつも妻と一緒に来ていたから、ここにくれば買い物中の妻と会えるような気がするんだよ」
なんと言ったらいいのかわからない話を聞いて、私たちは口をつぐみ、うつむいてしまった。
「ああーすまんね。つい気が滅入るような話をしてしまって。私もまた恋ができればいいのだけどね」と、軽く右目でウインクをして私たちに再び笑いを取り戻してくれた。
「きっと、たくさんガールフレンドができますよ」「君たちもそのうちの一人になってくれるかい?」と、さらっと言うかつてのプレイボーイの片鱗を見せてくれた。
「もちろん、喜んで」
私たち全員が弾けるように笑ったその時だった。
「ボブ、そろそろ」
ふとみると、まるでボデイーガードのように鍛えられた肉体を、黒のスーツに包み込んだ黒人男性が、おじいちゃんの後ろに立っている。
「おお、時間か」
「はい」
「じゃあ、私はここで失礼するよ。君たちはこのままゆっくりしていってくださいね。会えてよかったよ」ボブはバーガーもポテトも食べ終えていた。
私たちは立ち上がり、「ご馳走様でした。ありがとうございました」と、アメリカ人には馴染みのないであろうお辞儀をした。
すると「ありがとうございました」と、訛りはあるものの流暢な日本語でお礼を言うおじいちゃんに、また驚かされた。
「日本語ができるんですね」
「いや、挨拶だけだよ。じゃあ、また明日会えたらいいね」
「はい!明日もお会い出来たら嬉しいです」

私とひかりは、屈強な体のドライバーを従え最後まで誇りを保ち続けている、元脚本家の後ろ姿を姿が見えなくなるまで見送った。

「はあー感動」
ひかるの目は、星がきらめいているようだった。
「憧れの人に会えるって、めちゃくちゃ幸せだね。あーこの感動、誰に言おう。夫にはまず自慢しよう」
「私は、あのおじいちゃんのこと全く知らなかったけど、足元がおぼつかなくてもあの風貌とオーラは富裕層特有のものだとは感じてたけど、さらに才能ある人だったんだね」
人はなんの知識がなくても、感じることはできる。そしてその感じたことは、案外あたっていることが多いものだ。
「明日は、私彼の小説も持ってきてサインしてもらおう」
ファンとは、例外なくミーハーなものである。
「ここのモールは、静かで気持ちがいいから、連れてきてもらってよかった。明日のおじいちゃんの服装も楽しみだわ」と、元アパレル広報、現役のファッションライターらしい一言がつい出てしまった。
いつの間にかピンクレモネードは氷が溶けぬるくなっていたし、その色はマリブの太陽を取り込みもはやピンクではなくなっていた。

翌日も、ひかりの車で「MALIBU COUNTRY MART」に到着したのは、昨日と同じ時間の11時半だった。
今日もマリブは、私たちを文句一つない空と太陽で迎えてくれている。
昨日購入した、マリブと言う文字が入っている白のTシャツにビームスで買ったアロハ柄のリラックスパンツに、必携必須のレイバンの折りたたみ式サングラス。ひかりは黒の細身なノースリーブワンピースに身を包んで、昨日と同じように、同じ店でピンクレモネードを注文した。今日のスタッフは、アントニオではなく、同じくメキシコ系らしい、少しふくよかな女性だった。
ひかりの目の前には、あのおじいちゃんが買いた本が準備されている。
駐車場からの道を眺めながら、私たちはこの後行く予定のビバリーヒルズのロデオドライブで何を食べ、何を買うのかを相談していた。

1時間が経過し、やがて2時間が経過した。おしゃべりをしていても、やがて話題が尽きてしまった。
「今日は来れなくなったのかな」
「そうかもね。体調を崩したのかもしれない」
「アントニオがいたら聞いてみるんだけど、誰にも聞けないよね。連絡先を交換したわけじゃないし」
「じゃあ、今日は諦める?」
「うん、明後日帰るから予定はちゃんとこなしておきたい。ロデオドライブにも行きたい」
「わかった。じゃあ、また明日来てみよう」

翌日のマリブも穏やかで、ここにいる全ての人を包み込むような日差しが迎えてくれていた。
帰国が明日に迫っていたが、どうしてももう一度あのおじいちゃんに会いたい、と思いこの上品なモールに来て2時間待ったが、やはりボブはやってこなかった。あのドライバーも。
アントニオは出勤していたので聞いてみた。
「ボブ、いえこの間のおじいちゃんは最近来ないよね」
「ああ、そういえば最近見てないな。どうしたんだろう。俺も家までは知らないからな。まあ知ってても俺が入れるわけじゃないけど。それでもデリバリーを頼んでくれたら、俺が持って行けるんだけど、それもないんだよな」
と、教えてくれた。
「まあ、そのうちまたフラッとやってくるよ」
「そうだね。ありがとう」

「やっぱり体調崩したのかもね」と私がいうと、「うん、私これからも時々来てみるよ。体調が良くなったらきっとボブはここに来るだろうからね」とひかりが言ってくれた。
「うん、何かわかったら教えてね」
ひかりにそう頼み、私たちはこのモールで最後のピンクレモネードを飲み干した。それは、三日連続で飲み続けたピンクレモネードの中で、一番酸っぱい味がした。

翌日、ひかりがロサンゼルス空港まで送ってくれ、私は東京の日常生活へと戻った。

今回の旅は、ひかりの家でのんびりすることを目的に行った5日間だったが、学生時代の友人であるひかりと思いっきり話せたこと、ひかりのご主人のケビンが開いてくれたバーベキューパーテイーにケビンたちの友人がたくさん来てくれたことで、まるでアメリカに住んでいるかのような体験ができたことが、一番の収穫だった。そしてマリブのモールで出会った、ボブ。
彼に出会えたことは、プチダイヤのようにキラッと光る思い出となった。
ちゃんと自分でモノを作り出していた時代を持つ人のたたずまいと言うものを、見せてもらった気がした。ひかりがまたボブに再会して、写真を送ってくれるのを楽しみにしながら、慌ただしい日々を過ごしていた。

久しぶりに出版社での打ち合わせがあり、外出をしなければならないのに、朝からいつの間にか冷たくなっている雨が降り続けていた。
ベージュのトレンチコートを着て、お気に入りのフューシャピンクの傘を持ち、白のスニーカーを履いて電車に乗ると、当たり前のようにスマホを開いた。
その瞬間LINEメッセージが飛び込んできて、ひかりだとわかった。

そして「ボブ」と言う文字も見えた。
「会えたんだ!」と、ワクワクして開くと、ネットニュース記事のURLが貼り付けてあった。
クリックして開くと、ボブの写真が飛び込んできた。その下にある英文記事は、もう読まなくても内容は分かりきっていた。

そこにいるボブは出会った時より少し若い頃なのだろう。しかし、あのお茶目な笑顔のかけらがそこにはあった。いい顔だった。
添えられているひかりからのメッセージはたった一言だけだった。

「悲しいよ」

全身から血の気が少しづつ引いていき、あまりの寒さに胸を抱くように腕を交差させ、さすり始めた。それを私はいつまでもいつまでも、止めることができなかった。


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Hiromi  U.
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