人の人生に責任は持てない
人生の責任が持てるのは、自分だけ。
そんな当たり前のことを、つい忘れてしまう。
それを忘れてしまって、人にアドバイスをしたり、自分に何かできることがあるのではないか、と私はおせっかいを焼いてしまうことがある。
でも身内でも同じく、「人の人生には責任を持てない」のだ。
所詮、自分には自分が何を幸せと思い、何を望んでいるのか、しかわからず、たとえ子供や親のことであっても、その人が何を本当に幸せだと思うのかは、わからない。
そのわからないことを、真剣に考えてみても、結局できることはほとんどないのだ。
随分前に、ある大学でセミナーの仕事依頼を受け、担当の方と打ち合わせをしていた。
ちょうどランチ時間となったので、一緒に学食でご飯を食べながら仕事の話などをしていた。
すると、その方(40代男性)のお嬢様の話になった。
ちょうど高校三年生で「受験で大変ではありませんか」と私が聞くと、「いや、高校卒業後は公務員(ある専門職系)にさせます。それに合格したら、そこで○○の活動をさせます。
今も高校の部活でやってるので。そしてそこで良い旦那さんを見つけて結婚してもらいます」と、スラスラというその様子に、私は唖然としてしまった。
もちろんお嬢さんの意思もあったのかもしれない。
でもその後も「余計なことをさせなくても、その方が幸せですから」など、お嬢さんの幸せの価値観をまるで父親である自分は全部わかっていると言わんばかりの言い方に、内心「自分の親がこうでなくて良かった」と、心から思ったことを覚えている。
でも、案外このような親が多く、自分たちが幸せだと思っていることが、子供にとっても絶対に幸せなんだ、とものすごく自信を持っている姿に驚く。
親と子供は全く違うのに、なぜそんなに自信を持って言えるのだろう。
親が育った時代と、子供の時代は全く違うのに、なぜ同じ物差しで考えるのだろう。
親は通常子供より先に死んでしまい、子供が死ぬ間際まで見届けることができないのに、なぜこうすれば幸せ、と言い切れるのだろう。
不思議なことばかりだ。
逆に子供が親について考える時も同じだ。
子供が生まれる前に子供の父親と結婚しているのだから、その伴侶を選んだ経緯も、理由も本当のところはわからない。
それなのにそこで愚痴を言われても、親の幸せはわからないから話を聞くしかないのだ。
身内でさえそうなのだから、他人である友達などが本当に何を望んでいるのかについて、友人が本当にわかっているはずはないのだ。
それなのに「それはやめた方がいい」とか「絶対それはやった方がいい」といえるのだろうか。
だから相談された時には、「私にはできることは何もない」ということを自分自身に言い聞かせて話を聞く。
話を聞くくらいはできる。
私ならどうするか、も伝えることはできる。
でも、ここまでだ。
そしてその話を何度も繰り返し聞くことになってしまっていたら、(つまり何も改善されていないということ)その話を聞くためにその人に会うかどうかの選択を、そのうちにしてしまうだろう。
だって、私にできることは何もないのだから。
そして私にも1日24時間しかないのだから。
冷たい言い方かもしれない。
でも、人の人生に責任は持てないからこそ、一人一人が自分の気持ちを確認するしかない。
協力と依存は違う。
依存せず
依存されず、自分で自分の気持ちを確認し、自分で考え、修正し生きて行く。
それでようやく自分の人生に責任が持てる。
たとえ間違っても自分ならば気づくし、修正もできる。
何より自分の決断ならば、どんな結果でも納得する。納得するしかない。
それでも今の人生が嫌ならば、修正して変えていけば良いだけだ。
結局最後はこの言葉に辿り着く。
「自分を幸せにできるのは、自分だけ」
その通り。