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自由に生きるために必要なこと


当たり前のことかもしれないが、「自由に生きる」ためには、義務は少なければ少ないほどいい。
義務とは、「しなければならないこと」「すべきこと」だ。

憲法で定められている三大義務とは、「納税、教育、労働」だったと思う。
その中で、違反すると罰せられるのは「納税」だけ、というのも、国が私たちに求めているものって結局それなのか、と思う。もちろんお金がなければ、国が維持できないのはわかるが、経済成長がほぼ止まっているのに、納税額だけ増えているのはどうなんだろう、と思うことが増えた。

それ以外の、教育、労働については強制することができないのに、もしかすると私たちは「○○すべきだよね」という言葉を使ったり、考えたりしていないだろうか。

日本が戦争をしていた頃を知らない人も増えているが、戦時下においては「女性は結婚して子供を産むべき」と、大っぴらに言われ、誰もが信じていた。実際に父方の祖母は7人子供を産み、母方の祖母は4人子供を産んでいる。それは子供達を兵士として戦場に送り込むためだったのだが、国の緊急事態の時には義務が増え、それが当たり前だと思われてしまう。

つい最近では、2020年のパンデミック時には、マスクをするのが当たり前、という「義務」が発生していた。マスクをすることがどこまで効果があったのかはわからないが、マスクを義務のようにしなかった国よりも、日本はコロナによる死者が多かったのだとすると、あの義務は正しかったのだろうか、と、私たちは振り返る必要があるのかもしれない。

もちろん仕事上では、業務命令というものがある。それを守らなければ仕事に大きな支障が出たり、コンプライアンス違反になってしまうからだ。ただ、それ以外のプライベートなことについては、できる限り義務を手放した方が、自由に生きられる。

例えば「あのお誘いには絶対に行かなければならない」とか「お正月には義実家に行かなければならない」とか「生まれ育った土地にいるのが当たり前」とか「男性は、女性はこうあるべき」ということは、一体どこから来たのだろうか。

2020年以降、私はこの「自分で自分をしばっていた義務」を次々に手放した。
仕事も、「○○するべき」という言葉も、「頑張ること」「無理をすること」「我慢をすること」をやめた。時間の余裕ができると、モノの断捨離と共に、思考の断捨離ができる。
例えば、「古い友人との付き合いはしないといけない」と思っている思考は、どこからやってきたのか、なぜそう思っているのか、を考えることができる。

ある古い友人と食事をした際、私の知り合いの若い人を連れて行ったことがある。するとその友人は、若い人が全く知らない私の過去を次々に喋りはじめた。「それは言ってほしくないな」と思うことさえも、ペラペラと話し、その場はなんとか調子を合わせたが、後からどう考えてもあれは悪意しか感じられない、とわかり、(わかるのが遅いのだが)その友人との付き合いを一切絶ってしまったことがある。
このように、「付き合わないといけない」というのは全くの私の思い込みで、それに気づかせてくれた出来事だったと思っている。

さらに、「常に目標を持って生きるべき」とか「忙しいのは、必要とされている証拠」とか、いかにももっともらしい思考を手放した。
これらの思考はどこからやってきたのか、というと、その時代の親や学校の先生や、周囲の人たちが言っていた言葉を信じ、取り入れ、長年にわたって思考の断捨離をしなかったことによって、なんの疑問も持たずに抱えていた義務感だった。

「でもそれが必要だった時もあるでしょ」と、言われたこともある。
確かにそれが「効率的」だったことはある。
しかし、この「○○するべき思考」が、自分を苦しめていたとしたら、それは決して効率的ではなくなっていることがある。

では、義務を手放して本当に大丈夫なのだろうか。

私は義務を手放した後、「好き」を人生の中心に置くことにした。

英語で言えば、「should」を捨てて「want」だけにするのだ。

「好き」の力はものすごく大きいことは、「推し文化」の広がりを見ればわかる。
人は「好き」のためにはあらゆるハードルを超えていく。ハードルを超える原動力が義務感であるより、「好き」である方がずっと力が出ることを、私たちはおそらく知っている。
それなのに「好きなことをする」ということに、どこか罪悪感を感じてしまうのは、昔の私だけではないだろう。

「好き」イコール趣味、遊び、と刷り込まれているのは、これもまた「思考の断捨離」ができていないからだ。そして「遊び」は良くないと思い込まされている。
海外旅行に行って、日本にはない遊びに満ち溢れたホテルや街を見ると、「楽しむことは善」と信じ込んでいる国の人たちが作ったんだ、ということがわかる。
そこで「旅」という、人によっては遊びだと思うものを、私は十分に楽しませてもらっているのだ。

一方「好きを仕事にするのは難しい」と言われる。
おそらくそれは、本当に好きならばあらゆるハードルを超える力があるのに、もしそれができないのであれば、本当はその仕事が好きではないのではないだろうか。

そう、自分が本当に好きなものを見つけるのは案外難しい。
まずはじっくりと考えられる時間が必要だ。私は仕事を辞める時に、「書くことを仕事にしたい」と思ってやめた。
それでも不安は押し寄せてきたし、公募に出しても落ちれば自分の実力のなさを実感した。
しかし、一向に書くことをやめないのは、やっぱり好きだかららしいのだ。

「下手の横好き」という言葉もあれば、「好きこそものの上手なれ」という言葉もある。
昔からある言葉だが、ある意味的を得ていると思う。仕事になろうがなるまいが、私にとって書くことは生きることと同じだということに、今は気がついている。
そうなれば、あらゆるハードルはハードルではなくなるし、賞を取ろうが取るまいが、書き続けるだろうことがわかった。

「好き」の力は大きい。

私は義務感を手放し、好きを人生の中心に置いたことで、人生がシンプルになり、不安や失望は工夫で乗り越えているように思う。
そう、「好きは全てを超える」のだ。

そして、結局自分をしばっていたのは自分だった、ということに気づいた今、さらにその「好き」に集中するための環境を整えようとしている。
もう一つの「好き」である旅については、また後日書いてみたい。


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Hiromi.U
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