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思考を乗っ取られない生き方


先日「思考は現実化する」という記事を書いた。

https://note.com/uenohiromi03/n/ncdc736fd5ab9?sub_rt=share_sb

このところ「思考」という言葉がよく浮かぶ。
人は元気なうちは、思考によって生きていると言っても言い過ぎではない。
おそらく思考とは、一種の宗教のようなものだ。


多くの日本人は、お葬式は仏教式、結婚式は神道式かキリスト教にはするが、信仰心は厚くはない。宗教が日常生活に根付いているのか、というとそうではない。
イスラム教の国、中東のショッピングモールに行くと、お祈りの部屋があり、その時間になると音楽が流れ知らせてくれる。日常生活に宗教が根付いているのを目の当たりにして、不思議な気がした。

たとえ宗教が日常生活になくても、ほとんどの人は思考によって動いている。
朝起きる時間も、食事も、仕事を選ぶ時も、どんな人と付き合うのか、も全ては思考によって決めている。もう一つ何かを選ぶとき使っているのが、感覚だ。
いわゆる、好きとか嫌いや、なんとなく心地よいとか、嫌な予感がするとか、で選ぶこともある。
思考と感覚の二つを使いながら、私たちは日々、そして人生において何かを決断している。

感覚は人間が動物の本能として持って生まれた時から身につけているものだ。感覚に従っていれば間違うことはあまりないだろう。
しかし、思考がそれを邪魔することがある。

なんとなくこっちの方がいいような気がする、と思っていても、いやだってこっちの方が得だよ、という思考の声が聞こえてきて、感覚を無視する、ということは、おそらく誰しも経験があるだろう。その「こっちの方が得だよ」という声は、「得な方を選ぶべき」という思考をどこかで仕込まれ、信じているから聞こえてくる。
では、その思考はどこで仕込まれていくのだろうか。

おそらく物心ついた時は、両親から。やがて学校の友達や先生、ネットの情報、職場の仲間、読んだ本、あらゆる経験から思考は作られていく。
本人が気づかないうちに。無意識のうちに。
そして同じ思考の人たちと付き合い、さらに思考に縛られていく。ある日それが間違っていたという経験をするまで、その思考を信じ続ける。一切疑うことなく。

決して思考が悪いと言っているのではない。しかし、今自分はどんな思考によって物事を判断しているのだろうか、ということを、たまに意識することが大事ではないか、と思うのだ。
一度信じたら決して変えることはない、というのは少し違うような気がしている。それを私はパンデミックで気付かされた。

それまでは、努力すればほとんどのことは叶うと信じていた。おそらくそれは、親からの刷り込みであり、実際に叶った経験をしていたから、固く信じていたし、疑うこともなかった。
しかし、一瞬にしてコロナによってうまくいかなくなった時、大混乱した。
信じて疑ってなかった思考が崩れたからだ。自分を支えていた支柱が崩れたのだから、どう生きていけばいいのかがわからなくなった。
それを娘に言ったところ、「お母さん、なんでも思った通りになると思ってたの?」と言われ、自分の思考に気がついた。「私はそんなことは一度も思ったことないよ」と言われ、ハッとした。ガラガラっと信じていたものが崩れた音がした。

思考は時に人を頑固にしてしまう。柔軟性がなくなり、他の考え方を受け入れなくしてしまう。
この時辛かったのは、当時経営していたスクールの経営状況が悪化したこともあるが、何十年も無意識のうちに信じて続けていたものが崩れ、どう再構築したらいいのだろうか、がわからなかったことが一番辛かったのだと思う。

「価値観の崩壊」

この言葉を、この頃から使い始めた。正しくは、「崩壊と再生」だった。
信じていたものを捨て、新しいものを取り入れいく。選択し直す時期だと思っている。
本来、自分が持っている思考を時々意識して取り出し、審査し、必要のないものは手放し、新しいものと交換することが大事なのだと思うが、私はそれができていなかった。だからパンデミックという外部圧力によって、ようやく思考を入れ替えることができたのだ。

これ以降頑張ったり、無理をするのをやめたのも、思考が変化したからだ。
頑張らないとうまくいかない、無理や我慢すればうまくいく、という思考は、もう私には必要ないと思ったので手放した。手放したあとは、穏やかで揺らがない毎日が待っていた。

今後も時折、自分の思考を意識し、入れ替えることもあるだろう。それは一種の恐怖と痛みを伴うこともあるが、思考に乗っ取られた状態よりはずっといい。
誰かによって刷り込まれ、疑うことなく信じ続け、それによって幸せだと思えるのであればそれもいい。しかし、決して幸せではないな、と思うならば、一度自分の思考を疑ってみるといいのではないか、と思っている。

この時に助けてくれるのが、感覚だ。
なんか嫌な気がする、何かこの人怪しい、という感覚を優先すれば、思考によって誤った判断をしなくなる。
「違和感」「第六感」「予感」などは全て信じた方がいいのだと、今は私も信じている。これは、ある意味「自分を信じる」「自分を大事にする」ということと、同じことだと思う。
最近感覚を大事にしていることも、幸福感を多く味わっている理由なのかもしれない。

「考えるな。感じろ」という言葉があるように、思考は盲目的に信じているだけで、実は間違っている場合がある。そして誰かが人を利用するために、思考を吹き込んでくることもある。

大事なことは、時に思考を疑い、感覚を大事にすること。

先日の旅でそのことに気付かされたのは、偶然ではない気がしている。
他にもたくさんの気づきがあった旅だったので、今記事にまとめているところだ。
間も無く公開できると思うので、もう少し待っててください。


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Hiromi.U
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