
経験は誰にも奪えないし、奪われない
ここ最近映画を映画館で見ている。昔から映画は好きで、学生時代は3本500円などで見れる小さな映画館をハシゴして見ていたほどだ。
同じ作品を見ても、自分の年齢によって見方も気づきも違う。年齢を重ねるごとに、気づきが増えるのは、新鮮でありがたい。
昨日見た映画で、愛する人が亡くなり、一人泣くヒロインのシーンがあった。
この美しい女優さんが、どう泣くのだろうと思って見ていた自分がいた。
ためてためて、ようやく泣き始めたとき、「ああ、経験は誰にも奪えない、奪われない」と思ったのだ。
女優や俳優という仕事は、やったことがないのであくまでも想像だが、あらゆる役とシーンをこなしていかないといけない。役になりきり、観客が完全に感情移入できなければならない仕事で、大変だな、誰でもできるわけじゃないな、と思っている。
しかし、何かが素晴らしくて優れている人たちが、女優や俳優になる。それも若くしてなる場合もあり、名演技を賞賛されることもある。
なぜそれができるのか?
おそらく「経験値が高い」か「想像という名の、わかるという感覚」なのだろう、と思った。
愛する人を亡くした経験があれば、その時のことを思い出せば愛する人を亡くしたシーンを自然と演じられるだろう。記憶を体に刻みつけていれば、だ。
しかし、その経験がない人で名演技ができる人は、「いつの時代にか」経験したであろうことを思い出すように想像して、演技に生かすのだろう。
そう思い至った時、「ああ、全ての経験は貴重であり、その経験は誰にも奪えないし、奪われることはなく、永遠に自分のものなのだ」と思った。
「全ての出来事はネタである」というような記事を書いたことがある。
創造することを仕事にしている人たちは、きっとどんな経験も自分の体と心に刻みつけ、それを表現に使うだろう。私自身も思い当たることがある。先日離島での経験を、短編小説にしたからだ。
もちろん楽しい体験ばかりではない。
苦い、苦しい、耐え難い経験も、その時の痛みを忘れたかのように生きているが、思い出せば、引っ張り出せば、痛みとともにいつでも再現できる気がする。
創造する仕事ではない人であっても、「人の気持ちがわかる」ということに活かせる。
私は、教える仕事をしていた時は、ずっとそうして自分の経験を使ってきた。
子供である生徒さんの気持ち。
親としての経験からわかる、生徒さんの親御さんの気持ち。
若い時代を経験しているからこそわかる、若い人の気持ち。
女性だからこそわかる、女性の気持ち。
苦しく悲しい経験をしているからこそわかる気持ち。
努力して勝ち取った成功体験がわかる気持ち。
逆に、努力したのにうまくいかなかった悔しい気持ち。
などなど、活かせることはたくさんあった。だからこそ、「この人は私の気持ちをわかってくれている」と思われたのかもしれない。
長い人生の間には、味わいたくないほどの困難を味わうこともある。
しかし、それらは実は貴重な経験であり、やがてどこかで役立つ日が来る。
「失敗は成功の母」
という名言も、失敗という経験を活かしたから、成功したのだ、という意味だろう。
正直に言えば、昨日の映画の女優さんは「経験値が足りないのだろう」と、私は勝手に判断をした。それでも作品自体は、面白かったし満足している。
何より「この経験は誰からも奪われないし、奪えない」という経験をしたのだから、十分だ。
どんな経験も、全ては貴重な財産なのだから。
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