日本の建築史(古代)
前回の記事では原始時代の建築史を扱いました。
前回の分をざっくり振り返った後、本題の古代(大和時代~平安時代)の建築史を扱おうと思います。宜しくお願いします。
・前回のおさらい(原始時代(旧石器時代~古墳時代))の建築史
旧石器時代は各地を転々として移動する狩猟採集が主の生活をしていた為、洞窟や仮設の小屋を造っていました。
→縄文時代になると氷河期から脱し気候が安定するようになりました。食料が豊富に採れるようになった為、定住型の狩猟採集生活が可能となり、竪穴建物や掘立柱建物が誕生します。
→弥生時代は農耕生活が広がり一部では大きな集落・クニが出来ます。収穫物の保管をする為の高床倉庫など社会的な役割をもつ建物が出来ていきます。
→古墳時代は、多くのクニの中でヤマト王権が力を持ち始め、古墳や宮室など権威を外部に示すような建造物が造られていきました。
・飛鳥時代
(主要な建築:寺院建築(飛鳥時、法隆寺、四天王寺など)、藤原京)
この時代に唐(中国)から仏教が伝来すると同時に寺院の技術が伝わりました。日本最古の寺院は飛鳥寺と言われており、これを機に古墳から寺院を建立する流れが日本の各地で起こったようです。
また、朝廷は中央集権化を進めて周辺国と対峙していこうと考えていた為、唐の都城を倣って飛鳥の地に日本最初の碁盤目状の都城・藤原京が出来ます。
・奈良時代
(主要な建築:寺院建築(東大寺、興福寺、薬師寺など)、神社の建立(?)(伊勢神宮、出雲大社、住吉大社など)、都城の大移動)
前時代に伝来した仏教が政治と深く結びついた時代でした。というのも奈良時代は100年に満たない時代ですが激動の時代で、何度も遷都が繰り返されています。藤原京から平安京に落ち着くまで6回ほどの遷都が行われています。不安定な時代が続いた為、鎮護国家の思想により国を上げて東大寺などの寺院建立に注力していきました。
さて、神社建築の発生には諸説あるようですが、寺院建築の影響を受けてカタチを求めたという説があります。この説を元にして見ると、神社建築のデザイン・スタイルは仏教建築と区別しているようです。古代の神社に見られる特有の千木や鰹木、独立棟持柱などは古くからの形式を用いることで独自性を確立しようとしたことが考えられます。
・平安時代
(主要な建築:山岳寺院・密教建築(延暦寺など)、浄土建築(平等院鳳凰堂)、寺院と神社の結びつき(神仏習合)、寝殿造(東三条殿))
平安時代は唐との交流に距離を置き国風文化が台頭し、建築も国風化の影響のもと変化していきます。まずは平安京の遷都の際に京内に基本的には寺院を置かない(特例で東寺と西寺だけ建立)という方針を打ち出します。その為、密教が持ち込まれた際は寺院は山岳地に多く建立されていきます。また、密教の他に浄土信仰が隆盛し時の権力者の多くが阿弥陀堂を建立しました。
仏教の形も変化していき日本の神道と結びついて再構成されていきます。(神仏習合)これにより神宮寺の建立や神社の内部に仏教建築が建つといった状況が続きました。
ここで、当時の京の貴族住宅・寝殿造を見ていきましょう。その特徴としては、基本的に壁がなく几帳・屏風・御簾などの調度品によって仕切る室礼という方法がとられており、場面に応じて室内の様相を変えていた様です。また床の段差などで空間の緩やかな差別化が図られていたようで、唐に倣った宮城の視覚的な強い差別化のような事象と比べるとここでも国風化の影響が見られます。
・まとめ、考察
原始時代は国内各地で徐々に集団での生活が進んでいき、その機能や権力の誇示の為の空間、建築が誕生していきましたが、古代に入ると外国を意識するようになり新しい考え・技術を取り込むことによって社会・生活が変化していきます。都市空間や建築も例外では無く、京に都城ができ、寺院の建立、神社建築に影響を及ぼすなどの大きな変化がありました。しかし平安時代に入るとナショナリズムが強まり国風化が進み独自の建築空間が出来上がっていきました。
上記の歴史を振り返ると、外国との適度な距離感があったからこそ、その技術を取り込んで独自の発展が出来たのだと感じます。もともと古くから朝鮮半島を通して交流は多かったと考えられていますが、先進的な唐の文化に触れて衝撃を受けて飛鳥・奈良時代を通してそれを受容して平安時代に国風化していく流れが、近代に起きた明治維新後の西欧化と重なって面白いと思いました。国風化を考える上で注目したいのが唐と日本の考え方の違いです。唐の仕様は現在の中国の思想とほぼ変わらず中心性や左右対称が重要視されていましたが、日本のそれは自然の造形に倣うことが多く国風化に際して奥性や左右非対称が重要視されていったのだと考えられます。
最後まで読んで頂きありがとうございました。以下の資料を参考にさせて頂きました↓
・建物が語る日本の歴史 (海野聡 著)