信仰活動のフラッシュバック
最後に投稿してから
1年経ってしまうところでした🐢
亀も驚くほどノロノロ更新です。
本年はもう少し投稿頻度を増やしていきたいと考えてます。
よろしくお願いします。
昨年は子どもを育てながら
自分が幼少期に打ちのめされた絶望感、
まるで谷底に突き落とされたような無力感、、
それらのフラッシュバックを何度も経験して
感情を根こそぎ持っていかれ
人としての自分の存在自体も揺れ
空腹感、痛み、体の感覚がわからなくなったり
自分と周囲の間がガラス張りになっていて
違和感のある世界(離人感)に苦しんだ。
(これについては改めて表現してみようと思う)
今回は宗教活動での大きなトラウマがあったことにも気づいた話。
10年近く忘れていた出来事
昨年秋
信仰に関係のない友人と、
あるビルで待ち合わせた。
入り口の自動ドアが開いて中に入った途端、
嗅いだことのあるにおい、
見覚えのある廊下、
照明、、、
突然圧倒されて
私は立ち止まってしまった。
今すぐこの場を出たい、と友人に話して、
別の場所でお茶することになった。
友人に
「あのビルには宗教活動で出入りした。衝撃的な経験があり、それが急によみがえった」とおおまかな事情を説明できたのは
1ヶ月も後だった。
(トラウマ経験も含め、受け入れてくれる友人には感謝している)
コロナ禍以前、
そのビルでは教団が主催する展示会が開かれた。
会員が友人を連れて行き、教団の活動を知ってもらう布教の一環でもあるイベントだ。
私は20代だった。
その展示会の役員として数日間、館内を巡回したり受付を担当した。
役員として選ばれること自体が誇らしいことだから、と親はパステルカラーのスーツを新調してくれた。(さすが狂信的な両親)
一般会員が来ないプレオープンの日
私にとっては衝撃的な経験をした。
教えとの違いに気づく
端的に言ってしまうと、
「力」を持つ人たちのご機嫌取り。
このご機嫌取りの費用も私たちの供養から出ているのだろうが、、信じたくなかった。
権力に媚びへつらう
お偉い幹部方を、見たくなかった。
私は「御書」が好きだったし
「教学」も学ぶのが好きだった。
たくさんの手紙を残していった
あの鎌倉の聖人の生き方、姿勢とは
あまりにもかけ離れていると私は肌身で感じた。
しかし、それを誰にも言うことはできなかった。
すんばらしい〇〇流布の活動に意見する、
反対意見がある
という「おこがましい気持ち」が
自分にあること自体に強い嫌悪感を抱いた。
汚い生命、生命が濁っている、という感覚だ。
(この感覚をお持ちの方いるだろうか、、)
こんな自分ではダメだという自己否定とセットで。(今も、この二つを抱えやすい)
親や先輩方にも言えたとしても、
注意され指導が入るのも容易に想像できた。
私は自然と目をつぶった。
あれから思い出すこともなかった。
何度もビルの前を通り
名前を聞いても何も感じなかった。
待ち合わせ場所に決まった時も。
しかしふとしたきっかけで
10年近く前に閉めた蓋が
突然開き、私はうろたえた。
断片的なシーンは蘇るが
それを順序立てていくこと自体が
かなり苦痛だった。
月に2度のカウンセリングの場で
表現を試みたり
あの時お茶した友人に、話してみたり‥
同じ内容も話す人や場所、シュチュエーションによってブラッシュアップされていくのを感じた。
教えに怯えながら生活していた
得られたものは
「私たちの正しい教えを否定すると地獄に堕ちるで」という脅しに怯えながら生活していたこと。
正しいか正しくないかは別として
自分の意思が出づらかった。
少数派の意見ならなおさら
習性のように
自己否定感と自己嫌悪をぐるぐる回り続ける。
その由来を辿ることができ、
少し心の風通しが良くなった。